ジョナサン・ハリス(井上浩一訳)『ビザンツ帝国 - 生存戦略の一千年』白水社、2018年。

ビザンツ帝国 生存戦略の一千年

ビザンツ帝国 生存戦略の一千年

個人的には、「弱小」というのがビザンツ帝国に持つ印象だった。 特に、ローマ帝国の後継と考えると、エジプトやシリアを失ったあたりから、版図が小さくなっているというのが大きい。 無論、版図が広ければいいという話ではなく、そもそも版図や国境線という考え方が、国民国家・領域国家に基づく、近代的な考え方ではある一方、それが広がったとされるユスティニアヌス時代は単に無茶をして帝国に危機を招いた。 個人的な関心から言えば、軍事的にも盛り上がりに欠ける……、というのが本書を読む前の印象だった。

このようなものの見方に対し、著者は序章で一刀両断にする。少々長いが重要な部分なので、しっかりと引用する

ビザンツ帝国の社会や精神の特徴は、国境へのきわめて強く、かつ絶え間ない圧力に対応するなかで形作られた。外からの挑戦に立ち向かうのに、ここでは勇敢な軍隊だけでは充分ではなかった。ある集団を軍事力で打ち破れば、代わって新たに三つの集団が現れるに違いないからである。まったく新しい考え方を採用し、軍事以外の方法で脅威を取り除くよう務める必要があった。外敵の同化や定住、買収や秘密工作、あるいは、もっとも特異な方法として、壮麗なものを見せて敵を畏怖させ、友人ないし同盟者として囲い込むことなどが試みられた。ビザンツ帝国は繰り返し危機に見舞われたが、そのつど切りぬけ、立ち直った。ビザンツ文明のこのような特徴が正しく評価されてこなかったとすれば、責任の一端はビザンツ人自身にもある。文学・芸術・儀式において、ビザンツ人は歴史における最大の偽装詐欺をやってのけた。自分たちの社会や過去の完璧な継続だと表明したのである。あたかも古代から何も変わっていないかのように、最後の最後まで「ローマ人」と自称したのもそのひとつであった。実際のところビザンツ社会は、際限なく続く脅威に直面するなかで、絶えず革新と適応を繰り返していった。ビザンツ人の自己評価を鵜呑みにすると、ビザンツ社会の本質を見逃すことになりかねない。つまり、ジルやギボン以下、なぜビザンツは消え去ったのかを考察した人々は、そもそも間違った問いを立てていたのである。なぜ滅びたのではなく、このようなきわめて不利な条件のもとでなぜ存続できたのか、なぜある時期には反映し、拡大しさえしたのか、それこそが肝心かなめの問題なのである。*1

非常に端的に言ってしまえば、ビザンツ帝国の対外政策に関しては、本書はこのテーマが繰り返し論ぜられることとなる。

本書を読んで、「ビザンツ帝国コンスタンティノープルのための帝国である」という感想を持った。「もっとも特異な方法として、壮麗なものを見せて敵を畏怖させ、友人ないし同盟者として囲い込むことなどが試みられた」というがもっとも壮麗なものの一つがコンスタンティノープルであった。 一方、「コンスタンティノープルのための帝国」であるがため、阻害された属州では疎外感が高まり、テマ長官や軍事貴族らの反乱が幾度となく繰り返される。その頻度たるやまともな皇位継承はほとんどないのではないかというくらいだ。 しかし、皮肉なことに、反乱の成功は、コンスタンティノープルを掌握できるかどうかにかかっていたし、コンスタンティノープルを掌握した皇帝は軍事貴族たちの勢力を削ぐことに執心した。 そして、オスマン朝のメフメト2世がコンスタンティノープルを1453年に占領した際には、「ミストラやペロポネソスがなおビザンツ人の手に残されていたものの、その地にいたコンスタンティノスの弟たちは皇帝を名乗らなかったので、コンスタンティノス十一世が最後のビザンツ皇帝となった。ビザンツ人の理念や魂にとってコンスタンティノープルこそが核心であったから、この町なくして帝国が存続し得るとは考えられなかった*2」のである。

ビザンツ帝国は「アジアの草原地帯やアラビア半島から人の波が西へと流れてゆく『民族のボウリング場』の端*3」に位置していた。 黒海を挟んで北にはルーシがおり、西にはブルガリアやノルマンがいた。 ビザンツ帝国はこの地理的な位置ゆえに、領域への圧力が高い状態が断続的に続いたが、反対に言えば、このような場所にあったがゆえに、存続のための最大の武器―金―を持つこととなったのだと思う。 本書ではビザンツ帝国の経済的な部分について語られる部分はあまり多くなかったが、潤沢な財貨があってこそ、「毒をもって毒を制す」といった戦略を駆使することができた。 ビザンツ帝国にとって人的資源こそが貴重であった。 反対に言えば、金の切れ目が縁の切れ目であった。

ビザンツ帝国滅亡の種は、内覧の際にカンタクゼノスが、援軍を求めて外国君主を味方に引き入れたときに蒔かれた。もちろん、それ自体は何ら目新しいことではなかった。歴代の皇帝が何百年にもわたって行ってきたことである。今回違ったのは、先帝たちが用いていたすばらしい武器がカンタクゼノスにはなかった点にある。外交の歯車を円滑にし、同盟者の忠誠を確保する、無尽蔵と思われた金貨が、もはや供給できなかったのである。

そういう意味では、貿易の競争相手となった、ジェノヴァヴェネツィアを含める「ラテン人」が帝国を蝕んだという側面はあるといわんばかりの記述はなかなかに面白かった。 特に、第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領後にビザンツ人の心性が微妙に変化している点の指摘は興味深く、少し物悲しい。少々長いが引用する。

これまでのビザンツ帝国は、次々と押し寄せてくる危険な戦士集団を手なずけ、取り込んでいった。しばしば帝国軍に徴用し、他の敵に差し向けたのだが、この政策は一二〇四年に大失敗となる。失敗に対するビザンツ人の反応の一つが、遥かに狭い自己認識に引きこもることであり、そのひとつの兆候が自称の変化であった。公式にはビザンツ人は「ローマ人」と名乗っており、この言葉に民族・人種的には意味合いはまったく含まれていない。ローマ人とはキリスト教ローマ皇帝の臣下であるに過ぎない。ところがこの頃になると、ビザンツ人の中にみずからを「ヘレネス」と呼ぶものが現れ始めた。「ヘレネス」は新しい言葉ではなく、古代ギリシア人の自称であった。ビザンツ人はギリシア人の文学作品をきわめて高く評価しつつも、「異教徒」を意味するようになった「ヘレネス」という表現は、これまでずっと避けていた。しかし今やそれが復活の兆しを見せ、おそらく自分たちをラテン人から区別する特徴のひとつ――言語――を表明するものとなったのである。[...]こうして今やビザンツ人は、普遍的な理想ではなく、言語や民族という点から自己を定義するようになった。皮肉なことにこの点において、何世紀にも渡ってビザンツ人を「ギリシア人」と呼んできた、ラテン的西方世界の習慣に従うことになったのである。ただし、このような変化が生じた理由は容易に理解できる。敗北と占領は、いつの時代も民族意識国民意識を先鋭化させるものなのである。*4

終章にて、「ビザンツ帝国の最大の遺産は、もっとも厳しい逆境にあっても、他者をなじませ統合する能力にこそ、社会の強さがあるという教訓である。*5」と締めくくっているが、「ローマ人」から「ヘレネス」への自称の変化は財貨の観点以外に、心性の面でも、選択の幅が狭まっていったことを示している。

訳者の井上はあとがきにて「こんな本を書きたかった……、訳し終えての感慨である*6」と述べているが、読後感は、「こんな本を読めてよかった」である。 ビザンツ帝国から、なんとなく興味がありつつも、正直、どの本から手を付けたものか、という感じであった。 その点、本書は皇帝中心の政治史であるが、全体を概観することができ、他の本も手にとって理解できるようになる素地は整ったように思う。 非常に読み応えのある一冊であった。

とりあえず次の一冊は、これにしてみようと思う。

ビザンツ帝国の最期

ビザンツ帝国の最期

*1:本書、 pp. 16-17

*2:本書 p. 335

*3:本書 p.16

*4:本書、p.298

*5:本書 p.339

*6:本書、p.351