高田貫太『海の向こうから見た倭国』講談社現代新書、2017年。中村修也『天智朝と東アジア―唐の支配から律令国家へ』NHK出版、2015年。

白村江の戦いってなんだったんだろうという関心から読んだ2冊。

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

こちらは、6世紀前半までの大陸と倭国の交渉の話。

全体的に地図というか、図解が少なくて、ちょっとつらかった。 どこの話をしているのか?という場面もちらほら。 各場面で大まかな各国の領域を示してほしかった気もするが、領域として明示してしまうのは、相互交渉やいろいろな人々が交わるネットワークを論じる上で都合が悪かったのかもしれない。 副葬品などの形状・系統によって、その古墳に埋葬された人物の系譜を想定し、論を組み立てるというのはなかなかおもしろかった。 百済倭国と仲がいいというのは有名だが、新羅倭国と交渉を持っていたというのは、さもありなんという印象ではあるが、論証されるとなるほどではあった。 あと、記憶の彼方にわずかに残る中学校で習った「任那支配」論というのは否定されているらしい。

「海の向こうから見」ているという性質上、話が朝鮮半島メインとなっており、これらの国々が倭国の支持を取り付けることでどういうメリットがあったのかがいまいちわからなかった。 忘れているだけで、はっきり書かれていたかもしれないが、半島に兵力を送り出していたり、須恵器が"輸出"されていたり、軍事・経済的なメリットといったところか。

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)

一方、こちらがメインといってもいい、白村江の戦い以降の大和朝廷と大陸との関わりの話。

大筋において、白村江で破れ、持てる軍事力のほとんどを喪失した大和朝廷が唐からお咎めなしということはありえないよね、という話。 唐による羈縻政策を日本にも展開され、唐から吉野に至るまでの間に羈縻政策のための拠点が展開されていたが、のちの天武天皇にとって都合がいいように書かれた『日本書紀』では、これらは対唐防衛のための拠点であったとすり替えられているというロジックは興味深い。 近江遷都も天智天皇が白村江の敗戦にビビって実施したものではなく、唐が吉野に拠点を設置したため、強制移住されたというのは、以前から「たったそれだけの距離を移してなんの意味がある」と素人ながら思っていた筆者からすると納得の論であった。

難点を挙げるとすれば、朝廷が半島へ送り出した兵力の4万という数字に「盛ってないか」という批判的考察が不足していた点は挙げられる。 また、白村江に送り出し、喪失した兵力が朝廷の持てる兵力のほぼすべてで、ゆえに日本の防衛力がほぼゼロに落ち込んだというのがこの論のスタートであるが、文献以外をつかった論証が難しい兵力数はともかく、兵役適正年齢人口に関する考察がないので、そこは弱点か。

敗戦後、唐によるお咎めなしとする先行研究への批判として「常識的に考えて」としているが、やたらとこのような言い回しがあるので癇に障っているだけかもしれないが、ここへの考察も少し足りないような印象はある。 もっとも、唐は勝利した相手に対し、冊封体制羈縻政策を展開しているという事実もあるため、ここは当時の「常識」に適っているとは思われる。

加えて、その前に高田の論を読んだからではあるが、唐が拠点を設けて羈縻政策を展開したのであれば、考古学史料の1つや2つは出てきててもおかしくないが、そういう話はなかったように思われる。

とはいえ、全体的にアクロバティックな論理展開もなく、非常に納得のいく論旨であった。 素人ながら、学界的には広く支持されていない論なのだろうが、反対に、広く支持されているであろう「白村江以降、一転して唐と大和朝廷が友好関係を保った」という論理もいかがなものかという読後感である。