『ダンケルク』を観てきた

友人の結婚パーティーで関西に戻った帰りに、品川のIMAXで(遅ればせながら)『ダンケルク』を観てきた。

画面がでかく、迫力は満点だった。 id:Forty さんのアドバイスは正しかった。

この迫力満点の甲斐もあり、始終、緊張させられる映画だった。終わった後に後ろのおばちゃんが「緊張しっぱなしで疲れた」と言っていたのには、同意である。 兵士の置かれた極限状態を(ややデフォルメのきいた映像表現で)観客に追体験させる点では優れた映画だったと思う。

ただ、極限状態の「リアリティ」に特化した結果か、作品全体として「リアリティ」が欠けてしまっているように感じてしまった。 市街の陣地で守る兵士が少なかったり、浜辺が綺麗過ぎたり、アトラクションに並んでいるかのような兵士の列だったり……。 描きたいものが違うから仕方がないが、『つぐない(Atonement)』のダンケルクの描写のほうが好きである*1

なお、戦場経験のない人間の言う「リアリティ」って意味は分からないな、と自己批判しておく。

「いい奴」でも死ぬし(ジョージとか、あのフランス兵)、「嫌な奴」(ハイランド兵)でも生き残る、そんな「戦場における死のランダム性」はひしひしと感じられた。

ノーラン監督は「兵士」以外は描きたくなかったんだろうなぁと思う。

あと、イギリス人はダンケルク好きねぇと思った。ダンケルクのイメージってああいうのなんだねと。 今、ちまちまながら読んでいる本がこういうイメージに異議を唱えていて面白い。

Britain's War Machine

Britain's War Machine

「弱いイギリスがダンケルク撤退に大成功して、バトル・オブ・ブリテンでは忍耐勝ち(↑↑テンションMAX↑↑)、その後は、アメリカの腰巾着になって、なんとなーくドイツに勝利」 という第二次世界大戦のイメージが定式としてあるとのこと。これが第二次世界大戦中から戦後、最近までのイギリスの軍事戦略の基礎にあるらしい。

しかし、この本が言いたいことは、「別にイギリスそんな弱かねぇし、そもそも、孤独なイギリスvs枢軸という構図でもない」ということのようだ。 まだ読んでいる途中なのだが、映画を見て読み進めるモチベーションがもらえた。

どうしても自分の関心が大局的・理論的な部分(戦略・作戦・戦術、軍事組織、将校教育、政戦略の調整、資源のコントロールとかとか)に寄りがちなので、こんなことことも書いてしまった。

以下、細かすぎる感想

のっけから、「うおぉ」って思ったのは、土嚢を積んだ陣地で守備に付いている兵士(イギリス軍兵だっけ?)が(たぶん) "bon voyage" って言ってた点。 あの人たちは多分残って、海岸堡を死守して捕虜になったんだろうなと。

最初、桟橋7日間、船1日間、空1時間を「英本土からダンケルクまでにかかる時間にしちゃぁ長いな」と思っていた。 遅ればせながら、描き出してる時間だったってのに気づいたときは、「おぉ……、ターン制のシミュレーションゲームか」ってなったよね。 グランドストーリー自体はここで見えた感じだった。

主人公とハイランド兵ご一行様が棄てられた商船に乗り込むシーンは、さながら自ら棺桶に入りに行ってる感があり、嫌な予感しかしなかった。 近衛兵だのハイランド兵だのどこで見分けてるのか全然わからなかった。

戦闘機が不時着水するときって、衝撃で風防が歪まないように、予め開けておいたりしないのかしら、とか気になった。

ジョージくんが何者なんかがよくわからなかった。ルッキズムステロタイプ丸出しで「メスチソ?」とか思った。あと、新聞で英雄になってた理屈がよくわからなかった。

あと、あの船の爺さん、設定あるにしても、空軍戦術に詳しすぎでしょ。 でも、爺さんの言うとおり、確かに、スピットファイアのマーリン・エンジンはいい音してた。

*1:ジョー・ライト監督は「命の無駄遣いを描きたかった」とオーディオコメンタリーで言っていたと思う。

systemd-nspawnの記事を書いた

systemd-nspawnについて書いた記事が公開された。

gihyo.jp

Web媒体への技術記事の投稿は初めての経験である。これが冗談半分で言っている「systemd芸人」への第一歩になれば、なお良い?

systemd-nspawnについて調べようと思ったのは、systemdについて勉強していたら、*ctlコマンドに-Mなるオプションがあることに気づいてから。

記事にできると思ったのは、ネットワーク関係のオプションの挙動がわかりだしたところあたりから。

記事にしたのは、LPIC Level2の勉強が嫌すぎた現実逃避から1

Ubuntuのrootfsはさくっと作れたのだが、Fedoraのそれをyumで作る方法がスマートにできなくて苦戦した2

systemd-nspawnをしっかり使ってみて思ったのは、すごくプリミティブな作りなので、その分、systemdやコンテナの勉強になったということ3。 ちゃんと説明しようと思うと、結構しっかり調べなきゃいけないし、しっかり理解してないとスマートじゃないやり方でコンテナができてしまう。

systemd-nspawnで遊びだしたのはここ数ヶ月なのに対し、記事の執筆にかけた時間はおよそ1週間。 数カ月に試行錯誤して貯めていた知識が、執筆でパーツがつながっていくのが実感できて大変楽しかったし、達成感があった。

一文一文が長くなる傾向は相変わらずのようだったw

あと、某所でクローズドなLT企画があり、内容不問で登壇者募集だったので手を挙げた。 内容としては、書いた記事からプラスアルファの部分を話す予定。

そこで話した分で、あと1回分は書けそう。せっかくだし、さらにあと1回書けないか、ネタ探し中。

最後に、備忘のために、今回分のみの参考文献リスト(あとで書き足すかも)

記事を書くたびに伸ばしていけるように頑張る。


  1. なお、202で落ちた。

  2. 最初はyum-config-manager理研のサーバーのリリース26のレポジトリを直接指定して、登録するなどしていた。あと、rpmdbの件もrpmdbが空というその事実にたどり着くまでが長かった。

  3. systemdはmanページがとても充実していて、読んでいるだけで非常に楽しめる。

OSC 2017 Tokyo Fall で話してきた

OSC 2017 Tokyo Fall で10月にリリース予定の Ubuntu 17.10 についてお話してきた。

8月の京都でOSCがあったときに、たまたま私も夏休みで関西に帰っていたため、顔を出したところ、村人さんから話しませんかとオファーをいただきました。

  • 「(当日発表された)いくやさんの資料の答え合わせでいいよ」と言われたこともあり、
  • 前々から翻訳以外の活動もしたかったのもあり、
  • 調べてみたら、スケジュール的に多分大丈夫だろうということもあり、

ということで、引き受けた。

ところがどっこい、いくやさんに資料を頂いたところ、「現在は結構変わっていて、あまり役に立たないかもです。」とのこと。 中身も自分には高度で、ちょっと話せないなという感じだったので、「こりゃ身の丈に合った内容にしないとな」という感じだった。

OSC Tokyoのセミナーページも オープンソースカンファレンス2017 Tokyo/Fall - イベント案内 | 2017-09-09 (土): Ubuntu、Unityやめるってよ てなふうで、「聞いてたのと違う」が正直な感想*1

というわけで、「自分にできることをやろう」ということで、気持ちを切り替えた。 基本コンセプトは17.10を18.04 LTSの前段階と位置づけて、16.04 LTSユーザー(=自分)から見て、17.10ってどうなん、という内容で構成した。

発表自体は、力量不足で、16.10〜17.10で加えられた・加えられる変更を Ubuntu Weekly Topics や各リリースノートから引っ張ってきて、水増ししても時間が余ってしまった。 普段からわりと早口らしい*2のだが、発表とかになるとそれに磨きがかかるくせがある*3

ただ、調べた限りでも、あとから、hitoさんと話しても、デスクトップユーザーにとって、17.10って、UnityからGNOMEに変わるのが最大の変化で、それ以外は目立ったものはなし、といった感じだったので、仕方がなかったことにする。

まぁ、笑いを取りに行ったところはきっちり決められたので、関西人としてはそれだけで満足度が高い*4

タイミングが合えば、またやりたい。

ところで、im-config動かして、fcitxに設定したら、Wayland + GNOMEUbuntuでも、fcitx + Mozc で日本語入力ができてしまったんだけど、これは使えているとみなして良いのか否かという点が気になった。

*1:ついでに言うと、その週の本業が不規則な勤務になってしまい、体調やモチベーションの維持に力を使う感じで、その意味でも予定外だった。2日目は申し訳なく思いながら、家で過ごしました。

*2:仕事を始めてから知った事実。大学では周りの人は同じくらいのスピードで話していた気がするので気づかなかった。

*3:職場のプレゼン研修はゆっくり話せと言われまくって、辛かった。

*4:しょうもない自画自賛をすると、アンケートのくだりが決まったときに、勝負ありと思った。

松本佐保『バチカン近現代史: ローマ教皇たちの「近代」との格闘』中公新書、2013年

バチカン近現代史 (中公新書)

バチカン近現代史 (中公新書)

主権国家バチカン

地理の資料集を見てバチカン市国の項目を見つけ、面積が小さい、人が少ない、と思ったことがある人はそれなりにいると信じたい。 そんな、バチカン市国も見方を変えれば、教皇の住まいといってよく、教皇は全世界のカトリック信者のトップであり、なかなかに侮りがたい存在である。

しかし、思えば、連綿と引き継がれているにもかかわらず、教皇が世界史で扱われることはそう多くない。

叙任権闘争神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世教皇権の優越を見せつけ、十字軍を組織したあたりが最高潮である。 「教皇は太陽、皇帝は月」と言ったインノケンティウス3世の出した第4回十字軍は暴走して、あろうことか、ビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルを征服したり、教皇が何人も並び立ったり、ルターが出てきてプロテスタント教会が生まれたりと、坂を転げ落ちるような感じである。 主権国家体制が成立して以降は僅かな例外は別にパタリと記述が止んでしまう。 主権国家体制とは、教皇の世俗に対する権威の否定でもあったのだから、宗教分野以外で記述が減るのは当たり前ではあるか*1。 完全に相性が悪い。

しかし、世俗で主権国家体制が成立しようと、教皇は存在し続けている。 本書はバチカン(ローマ教皇領)の歴史を扱っているが、メインの記述はフランス革命のおこりからである。 幕開けの記述は劇的である。 「だが、宗教改革三十年戦争によって、バチカンの権威が徐々に失われていくなか、さらにフランス革命という、教会制度を否定し理性を第一に掲げた大きな変動が十八世紀に待ちかまえていた。バチカンが頼りにしていた世俗の王権が崩れはじめ、新たな近代という社会がはじまる。これ以降、『神の代理人』という権威は、現実世界といかに向きあおうとしたのか。神を奉じるバチカンの生き残りを賭けた近代との戦いが始まる*2

自分の中で、主権国家体制と教皇とは根本的に相性が悪いだけに、「バチカンの『主権』」といった言葉が記述に現れると、違和感と興味深さが掻き立てられた。

過去の栄光にしがみつく教皇

本書第II章くらいまでの感想は「過去の栄光にしがみつく教皇」というものが大きかった。俗っぽい言い方ではあるが。全体を通じて、バチカンには保守派か穏健改革派かの二択であるが、この時期はどちらかといえば、前者が幅を利かせていた時代である。 ピウス7世の時は、コンサルビ国務長官(役職名がおもしろい)の下しぶしぶながらも政教条約を結んで、生き残りを図ったり、ウィーン会議でうまく立ちまわったりで、柔軟にやれていた*3。 その後、(超)保守派の教皇が続き、近代化に抗する政策を打ち出す。

印象的だったのはグレゴリウス16世で、鉄道敷設は拒否、科学や技術の本は発禁、書いたら投獄といった具合で、「保守的なオーストリアですら、メッテルニヒが何らかの内政改革が必要なことを示唆したが、教皇は耳を貸さなかった。*4」 このあたりの記述で面白かったのは教皇選出にあたって、フランスとオーストリアとがそれぞれ押す枢機卿(ただし、枢機卿団は大体イタリア人)の一騎打ちになるというものである。こうした傾向は第一次世界大戦が終わるまで続いたらしいが、それは、オーストリアの帝国が崩壊したというのもあるのだろうか。

「覚醒教皇」ピウス9世はフランスの後押しで1846年教皇に選出され、穏健自由主義者であった。ただ、彼にとって不幸だったのは、「人びとはこの覚醒教皇が、反オーストリアであるイタリア・ナショナリズムの指導者になると見なした*5」ことだったのではないかと思う。

1848年にフランスに端を発した革命の嵐はイタリア半島にも及んだ。ローマでも憲法導入への市民の要求が高まり、ピウス9世はこれを認めた。だが、出てきた憲法は民主的なものとは程遠かった。結果、市民は「あれ?」となる。 流れを決定にしたのは、サルデーニャの対オーストリア宣戦布告であった。革命の鎮圧にオーストリアが忙殺されている間に、イタリアで革命を起こしてしまおうという算段であった。 「この宣戦布告はローマでも波紋を呼ぶ。もしピウス9世がイタリア・ナショナリズムの指導者であるならば、反オーストリアを掲げ『イタリア連邦』を率いることができると期待されたからである。*6」 だが、教皇はイタリア・ナショナリズムの指導者ではなかった。本書はオーストリア教皇を支える存在だったため、それに反旗を翻すのはなかなかに難しい決断だったとしている。 それもそうだろうが、本質的に教皇とはナショナルな枠組みを超えるカトリック教会の頂点に位置する存在である。ナショナリズムのリーダーとしての教皇の実現可能性はどれほどのものだったのかが気になるところである。 何はともあれ、期待していただけに、「人びとに大きな衝撃と憤激を与えた。*7」 革命を前にして、教皇はローマを脱出する。最終的に革命は鎮圧され、教皇はローマに戻ったものの、かつての自由主義的な姿勢は極端に保守的なそれに変わることとなった。

サルデーニャ王国がイタリアを統一すると、紆余曲折を経て、孤立無援のローマは王国に併合された。ここでのピウス9世の反応は次のように描かれる。「一八六四年一二月、ピウス9世は「謬説表」を発表する。これは自然主義や合理主義、宗教的寛容主義と言った近代的な思想や文化を誤りであり、排斥すべき対象とするものである。また、社会主義共産主義だけではなく、自由主義までも過ちだと主張し、これらをイタリア王国成立の根底に潜む思想的誤りとして糾弾した。そこには、教皇に就任当初、覚醒教皇と呼ばれ自由主義的な政策を支持したピウス9世の姿はなかった。*8」なんとも涙を誘う記述である。

このあと、イタリア王国教皇とは非常に仲が悪いものとなる。正確には、イタリア王国が世俗的な力を失った教皇の権威を否定する政策を連打する、ワンサイドゲームの感があった*9

主権国家体制の受容(?)

第III章は「イタリア政治への介入」と題されている。内容は章題のとおりである。 印象に残っているのは、イタリアとかつての保護者のオーストリアとが同盟を結んで孤立状態になってしまったのを、外交を駆使して脱出しようとしているところであった。唐突に、ゲームのルールを受容して、うまく立ちまわることを覚えた感じがする。 また、このあたりから、社会主義共産主義への対抗意識というのが表に出てくることが多くなったように思う。 面白い記述が多く枚挙に暇がないが、第一次世界大戦中に「七項目の和平条件」というのを時の教皇ベネディクト15世が協商側に出していた点である。 著者はこれに関して「[…]ウィルソン米大統領が平和に関する十四ヵ条を発表した。六ヶ月前にベネディクト15世が出した『七項目の和平条件』を発展させたものと見て良い内容」と述べている。

普通は1917年11月に発表されたレーニンの「平和に関する布告」を受けて、1918年1月のウィルソンが対抗的に「十四か条」を発表したという流れで見るものであろう*10。 「七項目」はこのいずれよりも早く、1917年5月発表とのことである。 著者の書く通り、ウィルソンの「十四か条」と「七項目」とが紐づくなら面白いが、過大評価という感も否めない。

ファシズム・ナチズム?

第IV章は「ムッソリーニヒトラーへの傾斜」である。 バチカンとイタリアのファシズム、ドイツのナチズムとの関係はいろいろと議論があるようだ。そういう議論があることは知っていたが、詳しくは知らなかったので興味深かった。 本書の立場は「親ファシズム・ナチズムではない。反共なんだ。」といった感じのところか。端的に書かれているのは、「このようにピウス11世、ガスパリ国務長官、そしてパチェッリ枢機卿の三人は、宗教的理由からだけでなく、ソ連ポーランド、ドイツなどで共産主義に直面した体験から、強い反共産主義の立場にあった。この三人がムッソリーニヒトラーとの政教条約の担い手となっていく。*11」という記述だ。

ちなみに、バチカン市国が成立するのは1929年に、ムッソリーニとの間で結ばれた、ラテラノ条約である。世界史の教科書で近現代のパートに教皇が出てくる数少ないシーンであろう。

先ほど引用したなかの、パチェッリは1939年、ヨーロッパ情勢がきな臭くなるなかでピウス12世として教皇に選出される人物であるが、「ヒトラー教皇」とさえ呼ばれることがあるらしい。 全体として、バチカン擁護の論調なのかなという感じである。 「史実から繙くと、バチカンナチス・ドイツの行動に積極的にコミットしていたとは言いがたい。バチカンが恐れたのは、共産主義国であるソ連はもちろんだったが、それ以上に共産党の国際的組織コミンテルンであった。バチカンカトリック教会の国境を越えたネットワークを使い、これに対抗しようとしていたのは確かである。バチカンにとっては、民衆の強い支持を得て誕生したファシズムやナチズムが、共産主義の対抗組織としてソ連を倒してくれる希望を持ち、頼りになる存在と考えていた。そのため、ムッソリーニのイタリアやヒトラーのドイツとの政教条約に踏み切った側面がある。*12

ホロコーストについても、対抗的な措置や抗議は行っていたが、それでも、「生ぬるいとの批判はついてまわるだろう*13」としている。

これらの問題について、詳しいわけではないが、多分に解釈の問題であろうという感は否めないと思った。「真実」なるものはおそらく出てこないだろう。 この問題に関する著者のメタ的な評価が面白い。「いずれにせよ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年代以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていなものが出てくるようになったのである。*14

世界の中のバチカン

だんだんこのあたりから興味が薄れてきたので駆け足に。

バチカンと米国は歴史的に決して友好的な関係ではなかった。*15」だが、冷戦を背景にアメリカとバチカンとの関係が深まる様子を軸に第V章は展開する。冷戦期にはカトリック教会が持つ国際的ネットワークがアメリカの東側の情報収集に大いに役立ったらしい。他にも、大戦中はスペインを中立に保たせながら、フランコ政権に影響力を行使して人権弾圧をやめさせたりと、バチカン大活躍なように描かれる。ヨハネ=パウロに至っては、さながら、東側共産圏を崩壊させ、冷戦を集結に導いたスーパースターのように描かれる*16

ここまで来ると、さすがに、過大評価ではないかという感が否めない。バチカンが積極的にそういうことにコミットしたことを否定するつもりはない。だが、コミットしたことと、そのあとに起きた出来事とを因果関係があると歴史学的に論証するのは、難しいものである。

とはいえ、教皇が世界のありとあらゆるところに顔を出し、様々な問題にコミットしてゆく姿を読んでいると、一周回って、グローバル化教皇とは親和性が高いように思えてくる。 もちろん、 Christendom とグローバルとを同一視することはできないが、世俗的権力を持たないからこそできること、というのが確かにあるように思えてくるのである。

*1: 主権国家体制は1648年のウェストファリア条約から始まったとされている。もっとも、ウェストファリア条約主権国家体制の始まりとすることに疑問を付している書籍もある。例えば、明石欽司『ウェストファリア条約―その実像と神話』慶応大学出版会、2009年。この本は買ったままでまだ読んでいない。 あまり詳しくはないので、厳密な議論はできないが、主権国家では、中に対して主権者が統一的な権限を持ち、外に対しては主権者が唯一国家の代表として存在する。現代では(主権)国家は領域・人民・主権が3要素とされているらしいが、これはいつからそう定義されているのかは知らない。

*2: 本書、8頁。

*3: 本書、13-20頁。

*4:本書、25-26頁。

*5:本書、33頁。

*6:本書、40頁。

*7:本書、41頁。

*8:本書、50頁。

*9:だが、個人的には、これは教皇の権威をイタリア王国側が恐れていたからであるとも見ることができるのではないかと思った。

*10:実は、ロイド・ジョージカクストンホール演説が「十四か条」の直前に挟まる。

*11: 本書、88-89頁。

*12:本書、108-109頁。

*13:本書、111頁。

*14:本書、111頁。

*15:本書、116頁。

*16:東側共産圏との対抗の中で「人権」を駆使するバチカンというのは新鮮味があった。親和性があるようにも思えるし、ないようにも思える。

ゴールドマン『ノモンハン 1939 第二次世界大戦の知られざる始点』みすず書房、2013年

ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点

ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点

読んだ順は前後。実家(事実上の書庫)に送ったと思っていたが、送っていなかったので、書けるやんということで。

ノモンハン事件の再評価

書名の通り、本書はノモンハン事件を「第二次世界大戦の知られざる始点」として再評価することを目標としている。 「第二次世界大戦の起源を論じた標準的な歴史研究は、日ソ間で発生したこの紛争、およびそれがヨーロッパの事態の推移に及ぼした影響にほとんど言及していない。本書はヨーロッパでの戦争についての全面的な再解釈というような大それたことは目指していない。そうではなく、第二次世界大戦の起源の解明という、いわばジグソーパズルを組み立てるような試みにおいて、小さくはあるが重要な、ノモンハン事件というピースが見落とされている、あるいは誤った場所にはめこまれているという事実に光を当てるものである。*1」 最初にこれを読んだ時は、副題ほど仰々しいものでもないゴールなのだな、と思ったが、今ここで記事のために引用してみると、筆者なりの「京都弁」なのかもしれないと思えてくる。

スターリンの外交的勝利

ここから少し世界史の授業である。ソ連はドイツとの不可侵条約とを結んだ。ドイツはソ連との不可侵条約を基に、ポーランドへ侵攻した。ヒトラーは英仏がポーランド救援に乗り出すことはないとタカをくくっていたが、英仏はドイツに宣戦布告した。ナチスは踵を返してフランスは制圧するものの、イギリスは攻略できなかった。ヒトラーは再び東方へ目を転じ「生存圏」の拡大を目指し、ソ連と対立、独ソ戦へと発展する。 日本は日本で、フランス本国がドイツに屈するのを見て、インドシナに進駐し、これがアメリカとの対立を深めることとなる。そして、1941年の真珠湾を迎え、枢軸国vs連合国という例の形が出来上がることとなる。 細かいことは省いたが、テストでこのように記述しても、ある程度の点数はもらえるだろう。

では、ノモンハンはこの構図のどこに位置づけられるのか。 著者は、スターリンは自らを高く売りつけるために、ドイツと英仏と競らせていたとしている。独ソ間の不可侵条約はドイツの、第二帝政からの悩みである、二正面作戦の恐怖を取り除いた。 しかし、ソ連にもその恐怖あった。西方の資本主義諸国と東方の日本とがそれである。 著者は、独ソ不可侵条約が締結された時期とノモンハン事件がピークを迎えていた時期が同じ1939年8月であったことに注目する。 結果、「ソ連が西側民主主義諸国と反ファシスト同盟を結成したならば、ドイツとの戦争という危険を冒すことになったろう。[…]また、ソ連が英仏と同盟を結べば、ドイツが日本と同盟を結成し、勢いを得た日本が徹底的な攻撃を加えた可能性もある。」つまり、英仏との同盟は二正面作戦の恐怖の現実化を招くと判断された。 一方、ドイツとの同盟は「それによってソ連はヨーロッパにおける戦争の局外に立つことができ[…]さらに、日本を名目上の同盟国からドイツを切り離すことに成功し、ノモンハンでは日本軍を徹底的に叩くことができた」としている*2

つまり、ノモンハンで危機があったからこそ、西での紛争回避とこの危機の解決とを一挙に狙える、独ソ不可侵条約を選択したというのである。

また、ノモンハンで徹底的にソ連軍が日本軍を叩いたからこそ、ゾルゲはスターリンに対し「日本の北進はない」と通報することができた。ゾルゲの通報があったからこそ、ソ連は極東の兵力をモスクワに展開することができた*3。日本が南進を決定した背景にはノモンハンの「責任者」たる辻や服部が参謀本部作戦課の中枢にポストを得ていたことが、少なからず影響しているという*4。南進の行き着く先が日米開戦であることを考えると、なるほど、ノモンハンは重要な「事件」であったというのも納得である*5

限定戦争としてのノモンハン

しかし、この外交的な動きの話をするだけなら、本書の紙幅は半分とは行かないまでも3分の2で済んだであろうというのが率直な感想である。というのも、本書の半分近くが戦闘のかなり細かい経緯・推移に費やされているからである。 もともと本書が英語の書籍であり、「ノモンハン」という文字列に馴染みのない人にもわかるように書かれているのであろう。というか、日本史をやった人でも名前しかわからないかもしれないので、まったくの不要というわけではない。実際に興味深く読むことができた。 しかし、戦闘の細かい経緯・推移と本書の目的とが密接にリンクしているかといえば、それほどではないと感じた。

ただ、結論部に当たる第7章の最後の数ページは本書の目的とは別の論点が展開されており、ここは戦闘の経緯・推移と密接にリンクしていた。ずばり「ノモンハンと限定戦争」という節である*6。 個人的には、ここが最も印象に残った部分であった。

著者はノモンハン事件を「近代(ナポレオン以降)、大国間で発生した最初の限定戦争*7」であったとする。著者は朝鮮戦争以後、大国間での限定戦争の可能性は多く研究されているものの、近代以降に具体的な事例が多くないため、理論に寄りすぎていると批判する。ノモンハンは数少ない具体例なのである。

また、別の切り口もある。つまり、この限定戦争としてのノモンハン事件は「意思決定を文民が統制する事例と軍人が統制する事例とが提示されている*8」のである。 前者は大粛清を経て、誰もスターリンに歯向かうことがなくなったソ連軍であり、後者は統帥権の独立を盾に独走する日本軍である。

ソ連関東軍とのノモンハンへの態度は対比的である。 「[…]関東軍は、一貫して、ノモンハン事件を孤立した事件として扱った。[…]この問題に国際的な側面があることを、一度たりとも意識した形跡はない。」 「『戦争とは他の手段をもってする外交の継続にすぎない』とはクラウゼヴィッツの言であるが、ソ連の政府首脳はこのことを十分に理解していた。ノモンハン地区の軍事的問題は、はるか広範な文脈に位置づけることで最善の解決を得られると認識していたのである。*9

平沼騏一郎独ソ不可侵条約の報を受けて「欧州情勢、複雑怪奇」と言った。著者の言を信じるならば、関東軍の辻や服部はこれをどう見ていたのだろうかと少し気になった。

*1: 本書、9頁。

*2: 本書、238頁。また、著者は1939年のイギリス、ソ連、ドイツ、日本にはそれぞれ主目標とそれがかなわない場合の副目標があったとし、結果は下記の通りであったとする:

イギリス

  1. ソ連との同盟による、ドイツのポーランド攻撃抑止(×)
  2. ソ連の英仏同盟へのコミット(×)

ドイツ

  1. ソ連との同盟による、英仏にポーランド援助を断念させる(×)
  2. ポーランド侵攻による英仏参戦の場合に、ソ連の中立確保

日本

  1. ソ連を標的にしたドイツとの軍事同盟締結(×)
  2. 包括的な防共協定(×)

ソ連

  1. 西側民主主義諸国と英仏との潰し合いで東西での裁量権確保(○)
  2. 対独戦の場合の英仏の援助確保(×)

これをもって筆者は「一九三九年の外交戦でスターリン勝利を収めた」という。本書、244-245頁。

*3:本書、262頁。

*4:本書、258頁。

*5:もっとも、この部分に関しては、既存研究がありそうではある。

*6:本書、266-272頁。

*7:本書、267頁。

*8:本書、267頁。

*9:本書、270頁。

NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦』新潮文庫、2014年

端的に本書を紹介すると、ドキュメンタリー制作のドキュメンタリーといったところか。やはり番組自体が本番であろう。

NHKスペシャル 日本海軍 400時間の証言 DVD-BOX

NHKスペシャル 日本海軍 400時間の証言 DVD-BOX

購入は検討しているが、番組自体は見ていないので、ここに書くことは的外れのものもあるかもしれない。

本書・番組の問題関心は、「『命じられた側』ではなく、『命じた側』に迫」り、「反省会で話されている海軍の失敗を決して過去の事として語らず、現代への教訓を探す」ことにある*1。 この発想自体は特徴的というわけではなく、戸部良一他『失敗の本質』中央公論社、1991年も同じ線を行っている。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

オチとしては両者とも概ね同じ所に落ち着いていたような気もする。

第2章「開戦 海軍あって国家なし」では、どのようにして日本海軍が対米戦争に踏み切ったかという問題について検証をおこなっている。

  • 海軍は陸海軍間の予算獲得競争で散々「アメリカと戦うには金がいる」と言って予算を取っていた
  • にもかかわらず、いざ戦争となったら、「負けます」とは言えない
  • なら、一か八かやるしかない

ざっくり書いてしまえば、こんな感じであろう。この流れは既視感があり、森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』新潮選書、2012年がそれである。

日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)

日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)

大学図書館で借りて読んだ本のため、残念ながら手元にないが、公文書ベースで議論を展開していたと記憶している。これを機に買って読みなおすか、と思った。 開戦への流れの大筋自体には、かように既視感があったため、個人的な収穫は見いだせなかった。

ただ、伏見宮博恭王が、海軍省と軍令部との権限の綱引きで、重要な役割を担っていたという部分は非常に興味深かった。 宮様軍令部長なるものはお飾りで、実質は次長が取り仕切るものと考えていた。 片岡徹也は「実質的に参謀本部を切り回していたのは参謀次長*2」と書いており、このイメージを海軍にも投射していたことに気付かされた。 しかし、26年も年長で昭和天皇も頭の上がらない人間が軍令部長海軍省と軍令部との権限争いで、ドローの勝負を続け、お互い同じレベルのカードを出しあえば、最後はトップに行き着く。 こういう事態になれば、伏見宮ジョーカーだったろう。 陸軍の宮様総長にも、興味が湧いた。

第3章、第4章は特攻がテーマ。 ここでも、「命令する者」という観点が貫かれている。 上は「志願する者があれば、特攻をさせよ。しかし、強制はするな。」と戦後に述べているのに対し、前線指揮官は「上からの命令があった」という。「事実は一体、どのようなものだったのか」という検証を進める。

本書は、上からの命令があったとする。専用の兵器も作っているのだから、そうだろう。 ただ、これは完全に妄想であるが、「志願する者があれば、特攻をさせよ。しかし、強制はするな。」と言った、というのは、責任逃れの言ではなく、トップから見た時には「真実」なのかもしれない。上から下に伝言ゲームする中で、少し前に話題になった言葉で言うなら「忖度」が働いたのかもしれない、と考えた。 それはそれで組織の病理であることに違いはないが、別の場所で書かれていた「一つしかない事実を追求できる」というのは、いかにもジャーナリストらしいと感じた。

第5章は東京裁判でのトカゲのしっぽ切り感の半端なさが印象的。 元大佐は、裁判における勝者と敗者の非対称性に憤りを示している。しかし、彼らが活躍(暗躍と言うべきか?)したことで、今度は上下に非対称性が生まれてしまっているのがなんとも皮肉なことである。

現代と結びつけて考えようというのは既視感があったり、歴史の取り扱いのスタンスに少し疑問が浮かんだりもしたが、本書・番組の特徴は「海軍反省会」という閉鎖的空間での「率直」な証言であったり、遺族・親族の証言が聞けることであろう。 これを前にしては、既視感だの疑問だのは大した話ではなく、ぐうの音も出ない、引き込まれるというのが率直な感想である。 また、本書は番組のスタッフが地道な調査・取材をしていることがひしひしと感じられた。素直に敬意しかない。

ぜひ、番組も観たいものである(それにしても、DVD高い……)

*1: 本書、16-18頁。

*2: 片岡「秀才たちの罪」『決定版 太平洋戦争5』学習研究社、2009年、132頁。

ジェフリー・ロバーツ(松島芳彦訳)『スターリンの将軍 ジューコフ』白水社、2013年(原著2012年)

スターリンの将軍 ジューコフ

スターリンの将軍 ジューコフ

去年の夏に神保町を散策していたときに、たまたま見つけて買った本書。ずっと本棚に眠らせていたが、スチュアート・D・ゴールドマン(山岡由美訳)『ノモンハン 1939 第二次世界大戦の知られざる始点』みすず書房、2013年(実はこの本も去年の3月くらいに買ったもの)を読み、ソ連・モンゴル連合軍を指揮したジューコフに感心が湧いたため、空気を通すことにした。

「共感の賜物」

「評伝が単なる事実の集積ではなく、著者と主人公との人格の対決を経て、初めて生まれる共感の賜であることを本書は教えてくれます。*1」と松島は「訳者あとがき」で記している。この本で私に最も響いたのはこの部分だった。残念ながら本文ではない。

正直に告白すると、これまで評伝というものをあまり読んだことがなかった。修論では、ある個人に着目した研究をしていたにもかかわらず、である。 再び、松島のあとがきより引用する。 「従来のジューコフ像は、この回想録*2に過度に依存する傾向がありました。しかしソ連崩壊で明らかになった新資料によって、回想録の記述を批判的に検証できるようになりました。筆者は記録や証言と、歴史的事実を厳格に区別し、膨大な記録と記録を突き合わせることによって、一つしかないはずの事実に迫ってゆきます。*3

このあとに松島も書いていることだが、例えば、回想録に「スターリンと面談し、重要な決定を下した」といった記述があれば、スターリンの執務室の面会記録と付きあわせて、「いついつからいついつまでに面談した記録はない」といったふうに、ジューコフのついた「嘘」を綿密に暴いていくプロセスが本書の魅力(独自性・新規性といってもよい)である。

「嘘」を必要とするソ連という体制?

本書を読むと、ジューコフの回想録は「嘘」(あえて「嘘」と書く)だらけなのではないか、という感想を持ってしまう。実際にそういうわけではないだろうが。 「ジューコフの子供時代と青年期は、無一文から栄達した立身出世の物語だ。[…]彼が概ねこのような生涯を歩んだのは事実である。[…]しかし、伝説になるほど不幸な環境ではなかった。生まれた場所や家族と社会とのつながりに目を凝らせば、比較的恵まれた農家の生活があった。*4」出だしからこうである。

なぜ、このような大小の「嘘」を重ねなければならなかったのか。 この問いは、本書全体を通じて重低音のように流れている。しかし、著者の答えは冒頭に示されている。さすが、研究書。 著者は第1章を「栄枯盛衰」と名付けている。この章は第二次世界大戦ソ連勝利を称える演説をするジューコフから始まる。「傍から見れば栄達の極み」といえる場面である。だが、その後、政治に翻弄され浮き沈みを繰り返すジューコフの姿が描かれる。フルシチョフ政権下のソ連で「ジューコフは回想録の執筆に慰めを見いだした。*5」 つまるところ、戦後もジューコフは自分の地位と名誉とをかけて戦い続けなければならなかったから、というのがその回答だろう。

このような著者のリードもあるため、「さすがソ連大変やな……」とか「どう考えても、戦後が本番」などと思いながら読み進めていた。しかし、本当にそうなのか?という疑問が湧いてきた。 「嘘」をつくのはソ連という体制だから、というわけではなく、回想録だからではないか?

先に告白したとおり、評伝は経験が少ないため、この疑問は今後に持ち越したい。

評伝の難しさ

ともかく、個人の回想録とその他の史料とを突き合わせて緻密に分析する本書は、自分にとって評伝の一番のお手本である。 修論のテーマと本書は内容的には直接関係がないし、目指す方向も違っていたが、手法としては近いものがあるため、もっと早く読んでいたら、違ったものができていたかもしれないなと思う。 (なので、本稿の冒頭で挙げたように、解説の部分が最も響いた。)

ただ、評伝というものの研究上の価値付けが難しいと感じた。 本書のようなビッグネームの評伝なら、このような緻密な作業(あえて言葉を悪く言えば、「地味」な作業)をするだけで価値が出せる。人物を取り上げる理由は「ビッグネーム」という時点である程度、終わっている。もっとも、その分、先行研究も膨大なため、新規性を出すのはなかなか大変だろう。気楽で良いというつもりは毛頭ない。

「スモールネーム」だと、その人物の価値付けから始める必要がある。「そういう人がいるのはわかった。で、この人、なんか影響与えたの?そんなに大事?」という問いに答えなければならない。 もはや、ただの反省文だが、自分はこれに答えられなかった(し、もっと大きな価値付け問題にも答えられなかった)。 ただ、機が熟せばまた向かい合いたいと思っているので、「評伝が単なる事実の集積ではなく、著者と主人公との人格の対決を経て、初めて生まれる共感の賜であること」というのは肝に銘じておきたい。

*1:本書、354頁。

*2:引用者注: ジューコフジューコフ元帥回想録』朝日新聞社、1970年。

*3:本書、354頁。

*4:本書、22-23頁。

*5:本書、17頁。