平野聡『大清帝国と中華の混迷(興亡の世界史)』講談社学術文庫、2018年(原著2007年)

高校世界史では「明清帝国」とひとくくりにされる明朝と清朝。 このくくり方には、両帝国の間に連続や継承があったというニュアンスがある。

実際、清は明の残した統治システムの多くを継承したと高校世界史的には説明されている*1

だが、このことは清が「中華文明に魅せられた」ことを意味するのであろうか?

以下、自分が面白いと感じた部分をピックアップしてみる。

現代への視点

本書の序章は「「東アジア」を疑う」と題されている。この章は読者を強く引きつける内容だ。 話は暦から始まる。1つ例にこれを取り上げてみよう。

中国五千年」というが、これは「漢人の社会と文化を最初に創始した伝説上の帝王である「黄帝」が今日の陝西省で即位して理想の統治を初めて以来の年数とされており、一般に「中国史」の枠組みにおいては「黄帝紀元」と呼ばれている。

しかし、この四七〇三という数字、さらには「中国五千年」という呼び方は、中国ですら、もともと自明ではなかった。漢人の社会、そして「天下」を支配する皇帝を戴く前近代「東アジア」の帝国が、伝統と近代の間で激しく揺れ動いたが、とくに近代日本に対する憧憬と反発がないまぜになった葛藤を深めて行く過程で自意識を突出させた表現なのである。 そもそも、この「黄帝紀元」という、一人の伝説上の人物を基準にすべての歴史を考えようという時間軸の立て方そのものが、漢人、そしていわゆる中国文明に固有の発想ではなかった*2

暦は権威の象徴であった。琉球や朝鮮は明や清の使う皇帝の名前を冠した年号を使っていた。 「時間軸と歴史の表現のされ方は、究極のところはひとつでしかないのが『東アジア』における帝国の姿だったのであり、それをどう選択するのか、強制するのか、拒否するのかという問題が、あまりにも痛切な歴史意識を作り出すことにもなった。あるいは、時間を専有することによってひとつの王朝は『帝国』たり得たといってもよい*3」のであった*4

この序章は短くはあるが、これ以外にも「中国史」や「東アジア」といった現代で一般に受け入れられているような言葉の理解を揺さぶってくる。 ここですでに明らかなように、本書全体を通じて、筆者の視線は現代へと向けられている。参考文献一覧にも書かれているとおり、本書は近現代をいったりきたりしながら記述されている。

中華思想」?

第1章では万里の長城が取り上げられる。 ここでの筆者の問題提起は簡単だ。つまり、「万里の長城中国文明の偉大さの象徴の一つとされるが、中国文明が偉大ならなぜ「壁」を必要としたのか?」ということである。

筆者は「中華思想」は使わず「華夷思想」というタームを使う。 華夷思想は、人間を「華夷」のそれぞれに分類し、前者が後者に優ると考えることである。 他にも同じような考え方は古来よりあるが、華夷思想が特徴的なのは、前者が後者を「教化」するところまで踏み込んでいることだと、筆者は主張する。 したがって、華夷の峻別は文化的なものであり、華を受け入れさえすれば、夷は華となることができたのである。当初、文化的優越の証は文字(漢字)であった。 「かつては『夷』と呼ばれていた人々を次々に巻き込む形で、今日の漢人にいたる大まかなまとまりが形作られた。それとともに、本来「夷」の側だったはずの諸都市国家や諸君主も、後世の歴史書の中では『華』を構成する一部としてとらえられた。*5

ここに儒学が入ってくる。 儒学が漢代に官学として採用されたことで、地位を確立すると同時に「本来は儀礼と道徳の学であったはずの儒学が、政治権力とのかかわりを媒介として、華夷思想の社会的影響力を強める方向にはたらくという副作用をともなった*6」のであった。 「要するに、「華」「夷」の基準とは、特定の儀礼作法(引用注: 漢字・儒学)を実践できるかという、ただそれだけの議論にすぎない。それにもかかわらず、それが早熟な漢人文化の下で拡大再生産された結果、絶大な思想的影響力を『東アジア』レベルにおよぼすようになったところに大きな特徴がある。*7

さらに、この「華夷」の区別を加速させたのが宋代の朱熹とその流れを汲む、朱子学であった。 これは当時一世を風靡していた仏教に対抗する思想であり、宗教的な信念をその考えに盛り込んだ。 厭世的な仏教に人々が自らの心の救済を求める用に慣れば、儒学は不要になってしまう。朱熹はそこに危機感を抱いた。 そこで、朱熹以下、儒学者たちは「天人合一」という「精神修養を通じて店の法則と人間の存在が一体化できるという視点を強く打ち出した。*8

だが、厳格な(厳格過ぎる)朱子学の理念を実践するには莫大なエネルギーを必要とし、人々の心の救済は依然として仏教や道教がになうこととなった。 これに対し、朱子学者たちは仏教や道教に対し「邪・淫」と主観的なレッテル貼りをするしかなかった。 この朱子学の独善性は、一般庶民の信仰と衝突した以外にも、朱子学と国家権力の関係、朱子学の考える「華」と「夷」との関係において深刻な矛盾を引き起こした。 つまり、「仏教や道教を尊重した皇帝の統治で、あるいは、「夷」が天下を支配した結果、朱子学の目指すところの、国家と社会の安定が達成されたら、朱子学儒学のの立場はどうなるのか?」という矛盾である。 筆者は次のように総括する。「華夷思想儒学思想、とくに朱子学の歴史とは、自らの主観的な判断基準と国家の現実とのあいだのずれをめぐって混迷を続けた歴史である。*9」 この部分の記述は本書全体を通じて、かなり効いてくるものである。

なかなかに興味深い記述が続くのであるが、本書全体を通じてそのような記述ばかりなので、先を急ぐこととする*10。 元に代わった明は、モンゴル人に支配された経験から、「理想的な『中華』を実現し、天命にのっとった平和な支配を回復しようという目標にひときわ強烈なこだわりを持った。*11」 明は躍起になって各国と朝貢関係を結び、財をばらまいては、「中華の偉大さ」を見せつけようとした。だが、これは一種のコンプレックスであり、明の財政的疲弊を招くこととなる。

また、北方との関係においては、「中華」を体現することはできず、モンゴルに対し、常に劣勢であった。その反動として、明は壁を築き、拒否の姿勢を示すのであった*12

清の登場

明が自滅に近いかたちで滅亡後、清が建国された。清は都を瀋陽から北京に移し*13、冒頭で述べたとおり、明からの連続性を強調する政策を打ち出した。

だが、明と清とはかなり志向が異なる。鄭和の遠征や倭寇といった用語が象徴するように、明は海を志向した帝国であった。 一方、清は内陸アジアを重視した。 清は第2章のタイトルの通り、「内陸アジアの帝国」として発展した。 「清が漢人地域を支配し始めたことは、地政学的にみれば漢人社会が「東アジア」の「核」から内陸アジアの『周辺』へと移行したことを意味*14」していた。

清は確かに、漢人社会に対しては明のシステムを継承した。だが、その漢人社会は帝国の「周辺」に過ぎなかったのである。 清は「中心」である内陸に対しては、チベット仏教の保護者であり、その立場をもってチベット仏教を信仰するモンゴル人のハーンとなった。また、ムスリムに対しては保護者として振る舞った。 つまり、複合的な統治機構を持つ帝国であった*15

清の登場は朱子学の矛盾をもろに露呈させる形となった。 その反応として登場したのが顧炎武と考証学であった*16

また、朱子学者・曾静と雍正帝との問答(『大義覚迷録』)で、雍正帝は「民族や文化の違いによって人間性や能力に本質的な違いがあるという見方を排除し」「『中外一体』という表現を積極的に用いるようになった。*17」 この「中外一体」が思想的に準備したところに、「中外一体」に欧米式の主権国家体制のシステムが到来したとき、現代にまで継承される、近現代中国の領域はほぼ確定することとなった。

主権国家への脱皮と苦しみ

第6章以降はざっとこのように説明して良いだろう。 欧米諸国の来航とそれらとの戦争・敗戦により、清は内とも外とも区別のつかない緩やかな従来の統治システムから、内外をはっきり区別し、内に対しては統治を確立し、外に対しては対等な者同士がやり取りをおこなう主権国家体制への適合を迫られた。

その中で、清自身が苦しんだのはもちろんだが、清が「内陸アジアの帝国」として重視していた部分であったがゆえに、内となったチベットや新疆、モンゴル、満州の今日まで続くような悲劇があった。 一方で、外となった琉球や朝鮮は日清の係争の対象となり、翻弄された。

所感

自分自身はあまり高校世界史の前近代の中国史を面白いと感じたことがなかった。 その理由はそれぞれの政治的な出来事同士や思想の流れにあまりつながりを感じることができず、ただ順番に覚えるだけのもののように感じたからであった。

その点、本書はその覚えたピース同士がうまくつなげて叙述しており、知的興奮を覚える一冊であった。 特に、政治と思想とを紐付けは膝を打つものばかりであった。

もちろん、著者が政治学者であるがゆえに、叙述が大雑把に感じない点がないわけではない。 この時代を専門とする歴史学者がすんなりと受容できるかと言われたら、微妙ではありそうだ。 専門外なのでわからないのだが、独自理論や独自解釈の罠もありそうだなぁという気がする。 それに、筆者の論文一覧著作一覧、特に最近のものを見ると、ちょっと大丈夫か、みたいな気持ちにはなる。

ただ、清朝だけでも300年くらいあるものをその前後含めつつ、しかも、地域的な広がりとダイナミズムのあるものをコンパクトに、かなりの程度の説得力と分かりやすさをもって、読者の持つであろう現代的な問題関心を常に刺激しながら、まとめ上げているのは、素直に「すごい」と思う。 他の本を読んだら、色々思うところも出てくるのかな、とは思うが、少なくとも現時点では、おすすめの一冊である。

*1:例えば、世界史の窓 - 満漢併用制

*2:本書、17頁。

*3:本書、20頁。

*4:余談だが、大学時代に西南アジア史の教授が教えてくれたのだが、現代ギリシャの美術館ではオスマン帝国時代の物品について「ポストビザンティン時代」と表記されているらしい。

*5:本書、75頁。

*6:本書、80頁。

*7:本書、81頁。

*8:本書、82頁。

*9:本書、85頁。

*10:本書、90-91頁。

*11:本書、94頁。

*12:この北方遊牧民に対する明のアプローチとその変化についてはアーサー・ウォルドロン「十四世紀から十七世紀にかけての中国の戦略」(『戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争』所収)が詳しい。

*13:両都市の比較も面白い。本書、114-118頁および、123-127頁。

*14:本書、135頁。

*15:本書、153-162頁

*16:本書、216-221頁。

*17:本書、177頁。