松本佐保『バチカン近現代史: ローマ教皇たちの「近代」との格闘』中公新書、2013年

バチカン近現代史 (中公新書)

バチカン近現代史 (中公新書)

主権国家バチカン

地理の資料集を見てバチカン市国の項目を見つけ、面積が小さい、人が少ない、と思ったことがある人はそれなりにいると信じたい。 そんな、バチカン市国も見方を変えれば、教皇の住まいといってよく、教皇は全世界のカトリック信者のトップであり、なかなかに侮りがたい存在である。

しかし、思えば、連綿と引き継がれているにもかかわらず、教皇が世界史で扱われることはそう多くない。

叙任権闘争神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世教皇権の優越を見せつけ、十字軍を組織したあたりが最高潮である。 「教皇は太陽、皇帝は月」と言ったインノケンティウス3世の出した第4回十字軍は暴走して、あろうことか、ビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルを征服したり、教皇が何人も並び立ったり、ルターが出てきてプロテスタント教会が生まれたりと、坂を転げ落ちるような感じである。 主権国家体制が成立して以降は僅かな例外は別にパタリと記述が止んでしまう。 主権国家体制とは、教皇の世俗に対する権威の否定でもあったのだから、宗教分野以外で記述が減るのは当たり前ではあるか*1。 完全に相性が悪い。

しかし、世俗で主権国家体制が成立しようと、教皇は存在し続けている。 本書はバチカン(ローマ教皇領)の歴史を扱っているが、メインの記述はフランス革命のおこりからである。 幕開けの記述は劇的である。 「だが、宗教改革三十年戦争によって、バチカンの権威が徐々に失われていくなか、さらにフランス革命という、教会制度を否定し理性を第一に掲げた大きな変動が十八世紀に待ちかまえていた。バチカンが頼りにしていた世俗の王権が崩れはじめ、新たな近代という社会がはじまる。これ以降、『神の代理人』という権威は、現実世界といかに向きあおうとしたのか。神を奉じるバチカンの生き残りを賭けた近代との戦いが始まる*2

自分の中で、主権国家体制と教皇とは根本的に相性が悪いだけに、「バチカンの『主権』」といった言葉が記述に現れると、違和感と興味深さが掻き立てられた。

過去の栄光にしがみつく教皇

本書第II章くらいまでの感想は「過去の栄光にしがみつく教皇」というものが大きかった。俗っぽい言い方ではあるが。全体を通じて、バチカンには保守派か穏健改革派かの二択であるが、この時期はどちらかといえば、前者が幅を利かせていた時代である。 ピウス7世の時は、コンサルビ国務長官(役職名がおもしろい)の下しぶしぶながらも政教条約を結んで、生き残りを図ったり、ウィーン会議でうまく立ちまわったりで、柔軟にやれていた*3。 その後、(超)保守派の教皇が続き、近代化に抗する政策を打ち出す。

印象的だったのはグレゴリウス16世で、鉄道敷設は拒否、科学や技術の本は発禁、書いたら投獄といった具合で、「保守的なオーストリアですら、メッテルニヒが何らかの内政改革が必要なことを示唆したが、教皇は耳を貸さなかった。*4」 このあたりの記述で面白かったのは教皇選出にあたって、フランスとオーストリアとがそれぞれ押す枢機卿(ただし、枢機卿団は大体イタリア人)の一騎打ちになるというものである。こうした傾向は第一次世界大戦が終わるまで続いたらしいが、それは、オーストリアの帝国が崩壊したというのもあるのだろうか。

「覚醒教皇」ピウス9世はフランスの後押しで1846年教皇に選出され、穏健自由主義者であった。ただ、彼にとって不幸だったのは、「人びとはこの覚醒教皇が、反オーストリアであるイタリア・ナショナリズムの指導者になると見なした*5」ことだったのではないかと思う。

1848年にフランスに端を発した革命の嵐はイタリア半島にも及んだ。ローマでも憲法導入への市民の要求が高まり、ピウス9世はこれを認めた。だが、出てきた憲法は民主的なものとは程遠かった。結果、市民は「あれ?」となる。 流れを決定にしたのは、サルデーニャの対オーストリア宣戦布告であった。革命の鎮圧にオーストリアが忙殺されている間に、イタリアで革命を起こしてしまおうという算段であった。 「この宣戦布告はローマでも波紋を呼ぶ。もしピウス9世がイタリア・ナショナリズムの指導者であるならば、反オーストリアを掲げ『イタリア連邦』を率いることができると期待されたからである。*6」 だが、教皇はイタリア・ナショナリズムの指導者ではなかった。本書はオーストリア教皇を支える存在だったため、それに反旗を翻すのはなかなかに難しい決断だったとしている。 それもそうだろうが、本質的に教皇とはナショナルな枠組みを超えるカトリック教会の頂点に位置する存在である。ナショナリズムのリーダーとしての教皇の実現可能性はどれほどのものだったのかが気になるところである。 何はともあれ、期待していただけに、「人びとに大きな衝撃と憤激を与えた。*7」 革命を前にして、教皇はローマを脱出する。最終的に革命は鎮圧され、教皇はローマに戻ったものの、かつての自由主義的な姿勢は極端に保守的なそれに変わることとなった。

サルデーニャ王国がイタリアを統一すると、紆余曲折を経て、孤立無援のローマは王国に併合された。ここでのピウス9世の反応は次のように描かれる。「一八六四年一二月、ピウス9世は「謬説表」を発表する。これは自然主義や合理主義、宗教的寛容主義と言った近代的な思想や文化を誤りであり、排斥すべき対象とするものである。また、社会主義共産主義だけではなく、自由主義までも過ちだと主張し、これらをイタリア王国成立の根底に潜む思想的誤りとして糾弾した。そこには、教皇に就任当初、覚醒教皇と呼ばれ自由主義的な政策を支持したピウス9世の姿はなかった。*8」なんとも涙を誘う記述である。

このあと、イタリア王国教皇とは非常に仲が悪いものとなる。正確には、イタリア王国が世俗的な力を失った教皇の権威を否定する政策を連打する、ワンサイドゲームの感があった*9

主権国家体制の受容(?)

第III章は「イタリア政治への介入」と題されている。内容は章題のとおりである。 印象に残っているのは、イタリアとかつての保護者のオーストリアとが同盟を結んで孤立状態になってしまったのを、外交を駆使して脱出しようとしているところであった。唐突に、ゲームのルールを受容して、うまく立ちまわることを覚えた感じがする。 また、このあたりから、社会主義共産主義への対抗意識というのが表に出てくることが多くなったように思う。 面白い記述が多く枚挙に暇がないが、第一次世界大戦中に「七項目の和平条件」というのを時の教皇ベネディクト15世が協商側に出していた点である。 著者はこれに関して「[…]ウィルソン米大統領が平和に関する十四ヵ条を発表した。六ヶ月前にベネディクト15世が出した『七項目の和平条件』を発展させたものと見て良い内容」と述べている。

普通は1917年11月に発表されたレーニンの「平和に関する布告」を受けて、1918年1月のウィルソンが対抗的に「十四か条」を発表したという流れで見るものであろう*10。 「七項目」はこのいずれよりも早く、1917年5月発表とのことである。 著者の書く通り、ウィルソンの「十四か条」と「七項目」とが紐づくなら面白いが、過大評価という感も否めない。

ファシズム・ナチズム?

第IV章は「ムッソリーニヒトラーへの傾斜」である。 バチカンとイタリアのファシズム、ドイツのナチズムとの関係はいろいろと議論があるようだ。そういう議論があることは知っていたが、詳しくは知らなかったので興味深かった。 本書の立場は「親ファシズム・ナチズムではない。反共なんだ。」といった感じのところか。端的に書かれているのは、「このようにピウス11世、ガスパリ国務長官、そしてパチェッリ枢機卿の三人は、宗教的理由からだけでなく、ソ連ポーランド、ドイツなどで共産主義に直面した体験から、強い反共産主義の立場にあった。この三人がムッソリーニヒトラーとの政教条約の担い手となっていく。*11」という記述だ。

ちなみに、バチカン市国が成立するのは1929年に、ムッソリーニとの間で結ばれた、ラテラノ条約である。世界史の教科書で近現代のパートに教皇が出てくる数少ないシーンであろう。

先ほど引用したなかの、パチェッリは1939年、ヨーロッパ情勢がきな臭くなるなかでピウス12世として教皇に選出される人物であるが、「ヒトラー教皇」とさえ呼ばれることがあるらしい。 全体として、バチカン擁護の論調なのかなという感じである。 「史実から繙くと、バチカンナチス・ドイツの行動に積極的にコミットしていたとは言いがたい。バチカンが恐れたのは、共産主義国であるソ連はもちろんだったが、それ以上に共産党の国際的組織コミンテルンであった。バチカンカトリック教会の国境を越えたネットワークを使い、これに対抗しようとしていたのは確かである。バチカンにとっては、民衆の強い支持を得て誕生したファシズムやナチズムが、共産主義の対抗組織としてソ連を倒してくれる希望を持ち、頼りになる存在と考えていた。そのため、ムッソリーニのイタリアやヒトラーのドイツとの政教条約に踏み切った側面がある。*12

ホロコーストについても、対抗的な措置や抗議は行っていたが、それでも、「生ぬるいとの批判はついてまわるだろう*13」としている。

これらの問題について、詳しいわけではないが、多分に解釈の問題であろうという感は否めないと思った。「真実」なるものはおそらく出てこないだろう。 この問題に関する著者のメタ的な評価が面白い。「いずれにせよ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年代以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていなものが出てくるようになったのである。*14

世界の中のバチカン

だんだんこのあたりから興味が薄れてきたので駆け足に。

バチカンと米国は歴史的に決して友好的な関係ではなかった。*15」だが、冷戦を背景にアメリカとバチカンとの関係が深まる様子を軸に第V章は展開する。冷戦期にはカトリック教会が持つ国際的ネットワークがアメリカの東側の情報収集に大いに役立ったらしい。他にも、大戦中はスペインを中立に保たせながら、フランコ政権に影響力を行使して人権弾圧をやめさせたりと、バチカン大活躍なように描かれる。ヨハネ=パウロに至っては、さながら、東側共産圏を崩壊させ、冷戦を集結に導いたスーパースターのように描かれる*16

ここまで来ると、さすがに、過大評価ではないかという感が否めない。バチカンが積極的にそういうことにコミットしたことを否定するつもりはない。だが、コミットしたことと、そのあとに起きた出来事とを因果関係があると歴史学的に論証するのは、難しいものである。

とはいえ、教皇が世界のありとあらゆるところに顔を出し、様々な問題にコミットしてゆく姿を読んでいると、一周回って、グローバル化教皇とは親和性が高いように思えてくる。 もちろん、 Christendom とグローバルとを同一視することはできないが、世俗的権力を持たないからこそできること、というのが確かにあるように思えてくるのである。

*1: 主権国家体制は1648年のウェストファリア条約から始まったとされている。もっとも、ウェストファリア条約主権国家体制の始まりとすることに疑問を付している書籍もある。例えば、明石欽司『ウェストファリア条約―その実像と神話』慶応大学出版会、2009年。この本は買ったままでまだ読んでいない。 あまり詳しくはないので、厳密な議論はできないが、主権国家では、中に対して主権者が統一的な権限を持ち、外に対しては主権者が唯一国家の代表として存在する。現代では(主権)国家は領域・人民・主権が3要素とされているらしいが、これはいつからそう定義されているのかは知らない。

*2: 本書、8頁。

*3: 本書、13-20頁。

*4:本書、25-26頁。

*5:本書、33頁。

*6:本書、40頁。

*7:本書、41頁。

*8:本書、50頁。

*9:だが、個人的には、これは教皇の権威をイタリア王国側が恐れていたからであるとも見ることができるのではないかと思った。

*10:実は、ロイド・ジョージカクストンホール演説が「十四か条」の直前に挟まる。

*11: 本書、88-89頁。

*12:本書、108-109頁。

*13:本書、111頁。

*14:本書、111頁。

*15:本書、116頁。

*16:東側共産圏との対抗の中で「人権」を駆使するバチカンというのは新鮮味があった。親和性があるようにも思えるし、ないようにも思える。