実家の猫が急死した。

2022年1月7日午前8時55分頃、1匹の猫が死んだ。私の実家で飼っていたメス猫だった。
他の人にとっては興味がないことかもしれないが、彼女との思い出をまとめておきたいと思う。今は絶対に忘れないと思っていることでも日が経つと忘れてしまいそうだ(し、昔の写真や動画を掘り返すと実際に忘れていることがいくつかあった)。

そもそもを言えば、我が家で猫を飼う予定なんてこれっぽちもなかった。

もっとも、猫自体は母方の祖父母の家で飼われていたことがあり、慣れていたと言い切りづらいものの、遠い存在ではなかった。その家で飼われていたのは初代が長毛種で白く気の強いメス猫、2代目が気の弱く甘えん坊な茶トラのオス猫だった。初代の方は気がきつかったため、幼い自分には猫は怖い存在だった。母曰く「お前があの子を徹底的に追い詰めていたからキレられてただけ」とのことだが。2代目が人懐っこい性格で、また自分もそれなりに大きくなり、キレられることがなかったため、猫はかわいいものと認識がシフトした。

2代目が亡くなり、以前より猫が遠い存在となって、自分の家でも猫がほしいと思うようになった。「黒猫の超かわいくて賢いメス猫が突然、庭先に現れて飼われることにならないか」という希望というべきか絵空事というべきか、とりあえず、そういうことは何度も言っては母には「はいはい、わかったわかった。そんな都合がいいことないから」とあしらわれていた。ちなみに、この絵空事のうち「庭先」のくだりは祖父母宅で飼われていた猫が野良猫だったところ、家の庭に住み着くようになり飼われ始めたという経緯を踏まえたものだ。父の方も「猫を飼うと家が傷むから」という理由でネガティブな反応だった。一軒家を建てて、ペットを飼えるようになったから(それまでは団地ぐらしでペットはNGだった)私はそういうことを言い出したのだが、家を建てたばっかりだからやめてほしいということだ。また、父は猫より犬のほうが好きだった。

彼女を飼うことになる直前はこんな雰囲気だった。

そんな状況が一変したのは、ある一本の電話だった。こういうご時世なので、知人のAさんとしておこう。Aさんは幼小中で私(と妹)の同級生の母親で、今現在もうちの母と親交がある人だ。電話越しにAさんは「保護猫を引き取ってくれないか」と言ったそうだ。何やら、Aさんのさらにその知人であるBさんから依頼を受けたらしい。Aさんのところで飼われていた猫を紹介したのがBさんといった関係だった記憶だ。とにかく、Bさんから「誰か保護猫を引き取ってくれる人に心当たりがいないか」ということで、うちに打診があったということだ。

どうしてそういう話になったかという説明をするにはあと何人か登場させないといけない。Bさんの知人であるCさんが猫の保護活動に熱心な方で、自宅に多数の猫を飼っていたらしい。しかし、Cさんが急死されたらしい。これだけでもCさんの保護猫の運命やいかにというところだが、Cさんのご近所さんのDさんがCさんの活動に対して批判的だったらしく、Cさんが急死されたことを受けて、保健所に猫の回収で連絡をしたそうだ。このままでは殺処分となるため、Bさんはその人脈を使って、まずは一時的に、その先は、恒久的に飼育してくれそうな家庭に片っ端からあたったということのようだ。このあたりになると直接見聞きしたわけではなく、母やAさん、Bさんから当時聞いた話をさらに今思い出して書いているので、真偽のほどは定かではないが、そういう理解であるということにしておいてほしい。

とにもかくにも、こういう次第で我が家に「猫を飼う」という選択肢が突然、舞い込んできた。相談の末の結論は「飼う方向で進める」であった。母自体は猫が好きだし、殺処分されそうになった(いったんは全部の猫に一時的に引き取ってくれる家庭が見つかったため、殺処分という展開は、我が家が回答するまでに回避できていた)子たちという経緯も踏まえて賛成の立場だったが、母曰く、父も「最近、家族がそっけない」という理由でOKしたそうだ。ちなみに、母のコメントは「そっけなくて悪かったな(笑)」であった。

こういう経緯で彼女が来た、という話かと思うだろうが、実はそうではない。当初もらっていた候補の保護猫リストに彼女はいなかった。リストにないものは選びようがないので、リストにあった猫たちのうち、茶トラのオスの引き取りを申し出た。祖父母宅の2代目を思い出してのことであった。しかし、その彼はうちには来なかった。一時的に彼を預かっていた家族の情が完全に彼に移ってしまい、このまま飼いたいと言い出したらしい。少々肩透かしではあるが、うちとしても、新しい家族とうまくやれているのなら、それに越したことはない。今回の話はなかったことに……となるはずだった。

「実はもう一匹子猫がいてね」ということでオファーされたのが彼女だった。生後3ヶ月くらいの黒のメス猫と聞かされた。Bさんの家では彼女の兄にあたるオス猫を飼っていて、兄妹は年齢は違うが、父親も母親も同じであり、正真正銘の兄妹であった。そのため、Bさんもこの子は自分の家で飼おうと思っていたからリストになかったのではないかと思う。また、Aさんがぽろりと「実はリスト外にもいい子がいて、Bさんのところにいる」と言っているのを聞いていたが、私はそれは彼女のことではないかと思っている。

黒のメス猫と聞いたら、以前から絵空事でそんなことを言っていた私が黙っているわけもなく、また、一時は猫を飼うという方向になった勢いに乗じて、ぐいぐい押した。飼うこと自体はほぼ内定していたので、実際に飼うとなった場合の説明も兼ねて、お試しの面会が2009年12月末ごろに設定された。黒猫と聞いて勝手に和猫をイメージしていたが、THE日本の黒猫という感じではなく、非常に毛が柔らかい長毛種だった。また、その頃の彼女は襟巻きのようにチャコールグレーの毛をまとっていた。色自体は成長に連れ落ち着くことになるが、メインクーンサビ猫のミックスと言われれれば、なるほどという姿であった。かぎしっぽでこれは幸運を呼ぶしっぽだと言われた。

面会は非常に好感触で終わった。我が家に猫のおもちゃなんてものはないので、適当に紙袋についてる紐状の取っ手を振り回して遊んでいたが、彼女は大興奮であった。あまりにも馴染みすぎて、大意ではあるが、Bさんをして「まるで最初からこの家にいたかのようだ」と言わしめるほどであった。年が明けたら、我が家にお迎えすることとなり、2010年1月17日に我が家での生活が始まった。

彼女は鼻風邪にかかっていた。それは彼女がCさん宅の庭に捨てられた理由でもある。あくまで、Bさん曰くだが、その母猫は野生ではこのまま病気で死んでいく子でも、Cさんのところに捨てれば、引き取っていいようにしてくれるというのをわかっていて捨ていくのだと言っていた。Bさんからは「治療したら治ると思う」と聞いていたが、あいにく、治ることはない持病となった。仕方ない。なにかの拍子に鼻が詰まるとくしゃみをするなど苦しそうなのが気の毒だった。

彼女は非常によく遊ぶ子であった。メインクーンは手先が器用で遊びが好きらしく、その血を引いていたのだろう。年齢とともに絶対的な運動量は減ったものの、いつまで経っても遊びへの欲求は絶えない子であった。私がたまに遊ぶのを面倒くさがると、母は「猫が遊ぶのは3歳くらいで、今だけだから今のうちに遊んだり」と言われて遊ぶみたいなことはあったが、後に3歳をとうに過ぎても遊ぶ彼女(に話しかける体で私の母)に向かって「3歳くらいで遊ばなくなるって聞いてたんやけどなぁ」と嬉しい愚痴をこぼしていた。別観点で言えば、テレビ番組で好きなことを絡めれば猫も芸をすると聞いて、試しに「お手とおかわりをしたら遊びに入る」というフローにしたところ見事にそれをやるようになったくらいとも言える。あるいは、毎年受ける予防接種の副反応でフラフラになっても遊びを要求するくらいとも言えるし、食べることよりも遊びが優先で遊びの気配があると食事を中断して遊びにいき、遊びが足りないと食欲が出ないこともあったとも言える。子猫のうちは、冬の寒さを凌ぐために室内に取り入れた観葉植物の木に手をかけていたこともあった(この姿を人間たちの間では「ライオン・キング」といっていた)。とにかく、遊びが好きで家族の間では「この子は遊ばなくなったら終わり」「この子は遊びながら死ぬればそれが本望ではないか」などと言っていた。

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また、非常に頭がいい子だったと思う。人間の動きや反応をよく見ていた。例えば、リビングと和室をつなぐ引き戸があるのだが、これを開けるだけでなく、主張があるときは大きな動き・音になるように開ける(例えば「お前ら何先にねとんじゃー。遊べぇー。」「朝じゃー。起きろー。」という具合だ)し、そうでないときは手を使って器用に、かつ、自分が通れるぶんだけを開けるという使い分けをしていた。遊びのときはおもちゃを持つ人間の手を見て根本を攻撃し始めることもあった(そういうときは「わざわざ遊んでるのに省力で遊ばないでほしい」という気持ちでいっぱいだ)。日々のルーチーンがわかっているので、夜の歯磨きが終わる音が聞こえるとさっと洗面所にいる私の背後に立ち、遊びを要求した。書いていて、たいていの猫はそうじゃないかという気がしてきたが、賢かったことにしておこう。

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ここで小話ではあるが、個人的には、子猫が空間把握する過程に立ち会えたことがありとても面白かった。内股の間からおもちゃを出し入れするという遊びをしていたところ、最初は、おもちゃ引っ込むと引っ込んだところに正面からアタックしていたが、ちょっとヒントを与えると「身体の後ろ」という概念を発見し、裏に回るようになったのだ。また、リビングの吹き抜けから見える2階の廊下に連れて行っても、最初は「1階から見えてる廊下」という認識がなかったのが、徐々に「ここは下から見えるあそこ」という認識を身に着けたのも面白かった。

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性格としては内弁慶であった。家の人間に対しては強気な態度を取るが、家族以外の人間に対しては警戒心が強く、歳とともに後者の傾向は強くなった。我が家は友人あまり来る家ではなかったというのもあるだろうが、幼少期に保健所の人に捕まりかけたということもあったのだろう。彼女についてはBさんが止めに入ったため、保健所の人に捕まること自体はなかったが、一種のトラウマであった可能性はある。家族以外の男の人を苦手とする場面が多く、配達のお兄さんも嫌いだった。

また、同じく捕まりかけたのが理由でということになっているが、抱っこが非常に嫌いだった。赤ん坊を抱くように、お腹を上にして抱っこなんてのはもってのほかだったし、お腹を下にしての抱っこにも不満で、我慢の限界を超えると威嚇されたり、噛んだり、暴れたりした。

噛み癖は最後まで直らなかった。これは幼少期に母猫に捨てられたことが原因とされた。流石にこれは直ったが、「こたつに脚が合計4本以上入ると噛まれる」と言われていた時期もあった。あいにく、きょうだい猫もおらず、加減を学ぶ機会がなく、最初はかなり痛かった。こたつの件で、父がわりとガチ目に怒っていたのを思い出す。彼女の側でも加減するようになったし、こちらの手の皮も厚くなったため、痛みは減ったが「手より先に口が先に出る」傾向はずっと続いた。そんな調子なので、「外に出たら狩りは下手で野垂れ死にだろう。家猫で良かったな。」と笑っていた。

彼女が生活に溶け込むにつれ、家がだんだんと猫仕様になった。必要最低限のケージやトイレ(2箇所)はさることながら、天井つっぱり型のキャットタワーが設置され、土鍋が置かれ(ちょうど猫鍋ブームが始まった頃だった)、人間がちょっと目を離したスキに所有権を主張した空き箱・捨てるはずだった学習机の椅子やら、トンネルやテント型の遊具、など、彼女のお気に入りのスポットが家の中にどんどん増えた。あまりにボロいものや最近使ってないものなどは捨てるのだが、解体していると「えっ、それ私のなのに捨てるんですか?」という目でこちらを見るもんだから、お気に入りスポットはなかなか減らない。猫なので人間の言葉を喋りこそしないが、目や動き・鳴き声で要求をよく訴えてきたものだった。

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話は遊びに戻るが、彼女の一番の遊び相手は私だったといって差し支えないだろう。両親に言わせると「彼女は一番お前のことが好き」である。だが、正確には私に対して、お得意の目や動き・鳴き声を使って、遊べという指示がよく飛んできたというべきだろう。「実は猫が人間をしつけている」という話を聞くが、個人的には納得度が非常に高い。少なくとも両親は「お前の遊びじゃないと満足しない」といっていた。次点で妹だった。彼女はその次点の父にも声をかけていたが、父は「ながら」で遊ぶのであまり気に入らなかった様子だった(当時は批判的に見ていたが、「ながら」の気持ちも、会社員をやっている今なら理解はできる)。走りまくって、体温が高くなり、普段は冷たい耳が熱くなるまで遊ぶこともあった。耳のことは「冷却フィン」と呼んでいた。

私が学生で実家にいる間、彼女は自分にとって最大の癒やしだった。メンタルの不調で留年したときも、就活で忙しいときも、卒論・修論で苦しいときも、彼女を撫でたり、遊んだり、(嫌がっても無理やり)抱っこしたりすることで幾ばくか癒やされた。

ところが、2016年になり、就職のため東京に出ることになり、毎晩のように遊ぶことができなくなったのが申し訳なかったが、帰省のたびにできる限り応じるようにしていた。2019年~2020年なり、9~10歳の「おばあちゃん」になったあたりから、遊びの量はだいぶ減り、代わりに「なでてくれ」という要求が増えたとのことだった。触られると遊びと思ってじゃれついてくるか避けるかのどっちかだったことが多かったので、以前では考えにくかった。ただ、私が帰省すると私が「遊ぶ?」って聞くこともあり、遊びのことを思い出すようだった。以前ほど跳ばないし、走らなくもなり、持続力も減ったが、遊びへの欲求自体は健在だった。遊ぶとなにかが分泌されるらしく「老いたなぁ」と思って見ていた毛や顔つきに、目に見えて艶が戻ったと感じることもあった。やはり彼女にとって遊びは命のようだった。

毎年の予防接種ついでにかかりつけの獣医さんに健康診断をしてもらっていて問題はなかった。年だからということで受けた血液検査の結果も、これといった問題はなく健康そのものだった。看護師さんからは「あと倍は生きそうやなぁ」と言われていた。一方、私は配偶者と結婚し、子供も授かった。配偶者については、母曰く「最初は妬けていた」とのことだったが、積極的に彼女に触れようとしないので、よくも悪くも「関係がない人」ということで関係は良好になる一方だった。また、子供についても、さすがにギャン泣きだけは勘弁だったようだが、2021-2022年の年末年始の帰省では、ケージ(彼女にとっての安全地帯)に逃げるということはめっきり減り、慣れつつあることが見て取れた。新しい家族と彼女の今後の交流を心から楽しみにしていた。

もっとも、彼女の死を意識していないわけではなかった。年々遊びの際の動きが鈍くなっており、10歳超えという年齢を感じさせずにはいられなかった。9月に帰省した際は生まれたばかりの子供にかかりっきりで、彼女のことは放置気味だったが、今回は、子供も成長して安定したので、彼女に割ける時間が多めに取れた。元気なうちに色々撮っておこうと考え、普段より気持ち多めの写真や動画に記録した。

また、彼女が亡くなる2日前に、大学時代の友人と京都で会うことができた。その友人も自宅で猫を飼っており、自然と猫の話になる場面があった。その友人はちょうど1年くらい前に子猫を病気で亡くしていた。その子について、後悔するところもあったようだが、最期は葬式をきっちり上げて見送れてよかった、という話を聞いた。話を聞きながら、12歳を迎えさすがに老猫と言って差し支えない彼女について思いを巡らせずにはいられなかった。今のところ、まだまだ元気だが彼女もいつか死ぬ。今後、何かの病気にかかって弱っていくのだろうか。しかし、彼女の"キャラ"的には病弱死というよりかは、遊びながら逝く気がする。こんな感じだ。

 

そして、2022年1月7日。別れは突然だった。

その日は、長めの冬休みも残すところあと数日で、実家から関東の自宅へ戻る予定の日だった。休みなのでもっと寝ていたいところだったが、父が朝から仕事に出かけるので早めに起きていた。朝ごはんを食べ、朝の彼女の姿を写真に撮った。そういえば日々の口内のメンテナンスの動画を撮ったことがない、ということで、タイムラプス動画に収めた。これが生前の彼女を記録した最後の画となる。

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背後から物が落ちる大きな音がしたのは、8:50頃。宅配便で送る荷物をまとめていたときだった。振り返ると、ケージに載せたクッションの上で寝ていた彼女がケージと窓の間に落ちていた。最初は彼女が何かをしようとして、珍しく失敗し、誤って落ちたくらいに考えていた。急いで駆け寄り彼女を抱きかかえたが、全身がぐったりしている。息はしていたと判断したが、目は見開いたままだった。先ほどの考えを捨て、てんかん発作か何かが起きたのではないかと思った。彼女を抱きかかえ、庭掃除をしている母を大声で呼んだ。パニックでどうしたらいいかわからなかったが彼女に呼びかけ続けた。母が到着し、動物病院に電話をかけたが、開業前でこちらからの電話ではつながらず、留守電にメッセージを吹き込んだ。

すぐに折返し電話があり、問診を受けたが、その最中に息をしなくなった。もしかしたら、「倒れたときは息はしていた」という判断が違っていたのかもしれない。いずれにしても、猫に関してのそのあたりの判断や心肺蘇生法については一切心得がなかったことが悔やまれる(犬猫を飼っている人は事前にこのあたりを見ておいてほしい)。抱きかかえた彼女の黒々とした瞳から生気が失われていくのが見て取れた。慌てて人間のそれと同じように心臓マッサージや人工呼吸をしたが息を吹き返すことはなかった。彼女は私の腕の中で息絶えた。8:55頃のことである。

彼女の亡骸は生前からは想像もつかないくらいにぐんにゃりとして、うまく抱えないと零れ落ちそうだった。完全に深刻なその状況にはそぐわないが「猫は液体」説というのは本当だなと思った。生前はお腹を上にして赤子のように抱かれるのを非常に嫌っていたが、このときばかりはそのスタイルで抱かせてくれた。これが最初で最後だった。

獣医さんいわく、不調の様子がなかったのなら、死因は心臓発作か脳梗塞だろうとのことだった。獣医でもなんでもないが、状況的には同意できる。ケージのクッションの上で寝ていたはずで、伸びか何かをしようとしたところ、心臓発作が起きて倒れて落ちたものと考えるのが自然だ。不調どころか、遊んでくれと言わんばかりの動きも見せており、普段どおりであった。血統的にメインクーンの血が入っているが、メインクーンは心臓が弱いということは聞いていたのでその点でも納得だ。考えようによっては、いわゆるピンピンコロリで、長い闘病生活の末にという人間にとっても本人にとってもつらい展開ではなかったのも良かったかもしれない。生前から家やものを引っ掻いたりもほとんどしないし、予防接種を除けば病院にもほぼ無縁だったので、母は「最初から最後まで手がかからない子だった」といって泣いた。

 

本当に偶然だが、"事件"の瞬間に立ち会えたのは「もっと早くに気づいていれば助かったかもしれない」という後悔を残さないため、不幸中の幸いだった。前述の通り母は庭掃除で外していたので、私がいなければ部屋に戻ってきてはじめて、すでに事切れた彼女と対面していたかもしれない。状況的にわかりやすかったのも幸いだった。例えばこたつの中で静かに逝ったという状況だったら、その場にいても気づかなかっただろう。そのため、気付きとしてはこれ以上にないくらいに迅速だったと思うし、発見から5分の間に、その時点の我々でできることはできたし、それでもだめだったという一種の納得感はある。また、個人的には前日の夜が今回の帰省で最後の夜だったので、彼女の遊びにとことん付き合っていたこともせめてもの救いだった。これが負担だったのではと言われるとつらいところだが、深夜に断続的に1時間ほど彼女が大好きだった遊びに本人が納得するまで付き合った。

悲しみを押して、私と母はネットで調べながら、今後の流れや亡骸の保全作業を進めた。図らずも2日前に猫の葬儀の話を友人から聞いていたので動きは比較的迅速だった。彼女の死を受け入れられない中で作業を進めるのはとてもつらいことだったが、私と母は立ち会えただけまだマシだった。父はその日の午後に急遽帰ってきてからの対面、妹は仕事の都合で帰省もできておらず、急遽新幹線に飛び乗り、完全に冷たくなってからの対面だった。葬儀は次の日の昼にできることになった。

生前の彼女が好きだったものを棺に入れて葬儀に臨んだ。その前に、棺に当たる箱だが、葬儀にはふさわしくないようにも思ったものの、馴染みのあるものが良いだろうということで、彼女が所有権を主張し、気に入ってよく入っていたAmazon段ボール箱にした。その中に彼女の亡骸を収め、おもちゃの猫じゃらしや餌を入れた。彼女が初めてうちに来たときに振り回して遊んでいた紙袋の紐状の取っ手がおもちゃ箱のそこに沈んでいたので、一緒に入れてやった。彼女がよく眺めていた庭の花も入れることにした。鳥が庭に落としていった球根から、季節外れのゆりがきれいに咲いていたので、これを買ってきた生花と入れることにした。家中にあるお気に入りスポットは入れようがないが、これは写真を入れることにした。

葬儀を執りおこなってくれた霊園までは車での移動だったが、そういえば彼女は車に乗るのが大嫌いでわんわん鳴いていた。霊園の人は終始非常に丁寧に対応してくれ、骨の解説もしてくれた。喉仏は仏の形だった。私たちは彼女を骨壷に詰めて帰った。

彼女は今、実家の一角に眠る。私にとって彼女はまさに絵空事で言った「突然、庭先に現れて飼われることにな」る「黒猫の超かわいくて賢いメス猫」であった。遊ぶのは3歳までと聞いていたのに、亡くなる前日まで遊んでいたのは騙された気持ちとまでは言わないまでも案外でだったが、最後まで彼女が好きなことをしてやれたのも、私の腕の中で看取れたのも私にとっては幸いだった。

ちゃこ、君のかぎしっぽは曰く通り幸運をもたらしてくました。思ったよりも早かったし、突然だったのがとても残念だけど、12年間、一緒に過ごしてくれてありがとう。ちゃこもそう思ってくれていたら嬉しいな。

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高田貫太『海の向こうから見た倭国』講談社現代新書、2017年。中村修也『天智朝と東アジア―唐の支配から律令国家へ』NHK出版、2015年。

白村江の戦いってなんだったんだろうという関心から読んだ2冊。

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

こちらは、6世紀前半までの大陸と倭国の交渉の話。

全体的に地図というか、図解が少なくて、ちょっとつらかった。 どこの話をしているのか?という場面もちらほら。 各場面で大まかな各国の領域を示してほしかった気もするが、領域として明示してしまうのは、相互交渉やいろいろな人々が交わるネットワークを論じる上で都合が悪かったのかもしれない。 副葬品などの形状・系統によって、その古墳に埋葬された人物の系譜を想定し、論を組み立てるというのはなかなかおもしろかった。 百済倭国と仲がいいというのは有名だが、新羅倭国と交渉を持っていたというのは、さもありなんという印象ではあるが、論証されるとなるほどではあった。 あと、記憶の彼方にわずかに残る中学校で習った「任那支配」論というのは否定されているらしい。

「海の向こうから見」ているという性質上、話が朝鮮半島メインとなっており、これらの国々が倭国の支持を取り付けることでどういうメリットがあったのかがいまいちわからなかった。 忘れているだけで、はっきり書かれていたかもしれないが、半島に兵力を送り出していたり、須恵器が"輸出"されていたり、軍事・経済的なメリットといったところか。

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)

一方、こちらがメインといってもいい、白村江の戦い以降の大和朝廷と大陸との関わりの話。

大筋において、白村江で破れ、持てる軍事力のほとんどを喪失した大和朝廷が唐からお咎めなしということはありえないよね、という話。 唐による羈縻政策を日本にも展開され、唐から吉野に至るまでの間に羈縻政策のための拠点が展開されていたが、のちの天武天皇にとって都合がいいように書かれた『日本書紀』では、これらは対唐防衛のための拠点であったとすり替えられているというロジックは興味深い。 近江遷都も天智天皇が白村江の敗戦にビビって実施したものではなく、唐が吉野に拠点を設置したため、強制移住されたというのは、以前から「たったそれだけの距離を移してなんの意味がある」と素人ながら思っていた筆者からすると納得の論であった。

難点を挙げるとすれば、朝廷が半島へ送り出した兵力の4万という数字に「盛ってないか」という批判的考察が不足していた点は挙げられる。 また、白村江に送り出し、喪失した兵力が朝廷の持てる兵力のほぼすべてで、ゆえに日本の防衛力がほぼゼロに落ち込んだというのがこの論のスタートであるが、文献以外をつかった論証が難しい兵力数はともかく、兵役適正年齢人口に関する考察がないので、そこは弱点か。

敗戦後、唐によるお咎めなしとする先行研究への批判として「常識的に考えて」としているが、やたらとこのような言い回しがあるので癇に障っているだけかもしれないが、ここへの考察も少し足りないような印象はある。 もっとも、唐は勝利した相手に対し、冊封体制羈縻政策を展開しているという事実もあるため、ここは当時の「常識」に適っているとは思われる。

加えて、その前に高田の論を読んだからではあるが、唐が拠点を設けて羈縻政策を展開したのであれば、考古学史料の1つや2つは出てきててもおかしくないが、そういう話はなかったように思われる。

とはいえ、全体的にアクロバティックな論理展開もなく、非常に納得のいく論旨であった。 素人ながら、学界的には広く支持されていない論なのだろうが、反対に、広く支持されているであろう「白村江以降、一転して唐と大和朝廷が友好関係を保った」という論理もいかがなものかという読後感である。

ジョナサン・ハリス(井上浩一訳)『ビザンツ帝国の最期』白水社、2013年。

ビザンツ帝国の最期

ビザンツ帝国の最期

順番的には『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』のほうが後なのだが、本棚から手にとった順では逆になってしまった。 そして、実は5月に入る前には読み終わっていたのだが、怠惰のせいで記録が遅れてしまった。

本物の千年王国として盛衰はありつつも生きながらえたビザンツ帝国の最期を、少なくとも筆者は、ロマンチックであり、英雄的なものとして記憶していた。 そして、どうも、「世間」でもだいたいそんな感じで記憶されているようだ。

著者は初っ端から、このロマンを砕いてくる。

皇帝の最後の演説、涙ながらの抱擁、祖国と信仰のために死ぬ覚悟であるという表明、これらの話は、絶望的な状況の中で、それに立ち向かう英雄的行為、自己犠牲の感動的な例として、何世紀にもわたって繰り返し語られてきた。 悲しいかな、それが事実ではないことはほぼ確実である。この話を伝えている年代記は偽作であった。 その年代記ビザンツ宮廷の政治家ゲルギオス・フランゼス(1401~1478)による方位の目撃記録と称しているが、実は一世紀も後になって、ナポリに住むギリシア大主教によって書かれたものなのである。 著者の大主教は、神聖ローマ皇帝がほどなくスルタンに戦いを挑み、コンスタンティノープルキリスト教徒の支配下に戻してくれるだろうという希望のもと、ギリシア人同胞を共通の敵のイスラームに対する戦いへと駆り立てようと考えて、祖先であるビザンツ人の英雄的行為を飾り立て、誇張して書いたのである。 1453年の包囲を記す正真正銘の同時代の記録の多くは、ずいぶん違う話を伝えている。 ある記録は、皇帝は演説をしたが、まったく違うことを言ったとしており、許しを請うたことや互いの法要、死のうという宣言などの感動的な話を伝えている記録はひとつもない。 逆に、目撃者の記録の多くは、コンスタンティノープルビザンツ人は断固命を賭けて戦おうとはしておらず、防衛にもっとも熱心だったのはヴェネツィア人とジェノヴァ人の部隊だったと述べている。 金持ちのビザンツ人は、財産を防衛のために差し出すどころか隠そうとしたし、貧しいものは、給料を払ってくれれば従軍すると言ったという。*1

読んでいて、初っ端から不穏となる記述だったため、少々長いが、引用をした次第だ。 筆者自身もぶちかましたことは認識しており「このありさまでは、ビザンツ帝国の最後の物語は書きにくくなるかもしれない。」と述べている*2

ビザンツ帝国にとって、これまでもそうであったように、異教徒であっても、使える手は結ぶといった状況で、「キリスト教 vs イスラーム」という構図は、西方キリスト教世界を相手に演出はしても、本質ではなかった。 トルコ人は異教徒ではあるが、コンスタンティノープルにも多く居住しており、常日頃から顔を突き合わせる隣人であり、互いに商売相手であったという状況だった。

そもそも、「キリスト教世界」と一括りにするのが間違いだろう。 現代の我々からすると、と言えば主語が大きくなりすぎるが、少なくとも、高校世界史のレベルであれば、それがカトリックであれプロテスタントであれ、東方教会であれ、一括りに「キリスト教」と言っていることがほとんどだろう。 しかし、ビザンツ人からすれば、イスラームが異教徒であるのと同様に、西方キリスト教も同程度に「異教徒」のようなものであったのだろうと想像する。 新旧約聖書という「プロトコル」を持つため、「異教徒」というのは言葉にすぎるが、それだけに、第四次十字軍があり、コンスタンティノープルに植民地を持つ、商売敵であり、関わるにはややこしい相手であったという状況というべきかもしれない。

そして、オスマンを相手に自身の生存が危ういにもかかわらず、ビザンツ帝国が一つにまとまれないのは、コンスタンティノープルから半独立の専制公という遠心力のあるシステムがあり、そして、その専制公らがそれぞれに、生存戦略を西方キリスト教世界、あるいは、オスマンとの融和、等々の軸に求めていたからでもあった。

本書を読んでいると、滅亡も直前の直前まで、生存戦略を巡って内部で争い続けており、その記述は「1453年」というその時が近づくにつれ、時間の刻みが細かくなり、まるで「アキレスと亀」のような感覚を覚えるところもある。 ただ、これは、我々が「1453年」という決定的なタイミングを後知恵で知っているからそう感じるのであり、直前まで生存に向けた議論や努力をおこなっていたのは、そのときを生きたビザンツ人にとって、「1453年」は自明ではなかったということでもあるのではないか。

果たして、コンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡したが、今度は、その状況を前に、上は専制公から、下は貧民まで、西か東かの選択を迫られる様子を筆者は細かく描いていく。

筆者がうまいなと思うところは、冒頭でロマンは破砕しつつも、多彩な登場人物たちを駆使して、当時のビザンツ帝国内の動きを描き、ストーリーを再構築する部分であろうと思う。

英雄的、ロマン的な最期の描写の典型例として、スティーブン・ランシマン卿が挙げられているが、記憶では、15歳のときに『コンスタンティノープル陥落す』を読んだ記憶があり、訳者の井上があとがきで言及している塩野七生の『コンスタンティノープルの陥落』もその後に読んだ記憶がある。 当時は、この描写に心打たれたという記憶があるが、今になってみれば、ジョナサン・ハリスの描く像のほうが、リアルであり、人間味があり、非常に面白いと感じる。 本筋とは関係ない副産物だが、これもまた発見であった。

*1:本書、pp. 10-11。なお、西暦はアラビア数字に改めた。

*2:本書、p. 11。

ジョナサン・ハリス(井上浩一訳)『ビザンツ帝国 - 生存戦略の一千年』白水社、2018年。

ビザンツ帝国 生存戦略の一千年

ビザンツ帝国 生存戦略の一千年

個人的には、「弱小」というのがビザンツ帝国に持つ印象だった。 特に、ローマ帝国の後継と考えると、エジプトやシリアを失ったあたりから、版図が小さくなっているというのが大きい。 無論、版図が広ければいいという話ではなく、そもそも版図や国境線という考え方が、国民国家・領域国家に基づく、近代的な考え方ではある一方、それが広がったとされるユスティニアヌス時代は単に無茶をして帝国に危機を招いた。 個人的な関心から言えば、軍事的にも盛り上がりに欠ける……、というのが本書を読む前の印象だった。

このようなものの見方に対し、著者は序章で一刀両断にする。少々長いが重要な部分なので、しっかりと引用する

ビザンツ帝国の社会や精神の特徴は、国境へのきわめて強く、かつ絶え間ない圧力に対応するなかで形作られた。外からの挑戦に立ち向かうのに、ここでは勇敢な軍隊だけでは充分ではなかった。ある集団を軍事力で打ち破れば、代わって新たに三つの集団が現れるに違いないからである。まったく新しい考え方を採用し、軍事以外の方法で脅威を取り除くよう務める必要があった。外敵の同化や定住、買収や秘密工作、あるいは、もっとも特異な方法として、壮麗なものを見せて敵を畏怖させ、友人ないし同盟者として囲い込むことなどが試みられた。ビザンツ帝国は繰り返し危機に見舞われたが、そのつど切りぬけ、立ち直った。ビザンツ文明のこのような特徴が正しく評価されてこなかったとすれば、責任の一端はビザンツ人自身にもある。文学・芸術・儀式において、ビザンツ人は歴史における最大の偽装詐欺をやってのけた。自分たちの社会や過去の完璧な継続だと表明したのである。あたかも古代から何も変わっていないかのように、最後の最後まで「ローマ人」と自称したのもそのひとつであった。実際のところビザンツ社会は、際限なく続く脅威に直面するなかで、絶えず革新と適応を繰り返していった。ビザンツ人の自己評価を鵜呑みにすると、ビザンツ社会の本質を見逃すことになりかねない。つまり、ジルやギボン以下、なぜビザンツは消え去ったのかを考察した人々は、そもそも間違った問いを立てていたのである。なぜ滅びたのではなく、このようなきわめて不利な条件のもとでなぜ存続できたのか、なぜある時期には反映し、拡大しさえしたのか、それこそが肝心かなめの問題なのである。*1

非常に端的に言ってしまえば、ビザンツ帝国の対外政策に関しては、本書はこのテーマが繰り返し論ぜられることとなる。

本書を読んで、「ビザンツ帝国コンスタンティノープルのための帝国である」という感想を持った。「もっとも特異な方法として、壮麗なものを見せて敵を畏怖させ、友人ないし同盟者として囲い込むことなどが試みられた」というがもっとも壮麗なものの一つがコンスタンティノープルであった。 一方、「コンスタンティノープルのための帝国」であるがため、阻害された属州では疎外感が高まり、テマ長官や軍事貴族らの反乱が幾度となく繰り返される。その頻度たるやまともな皇位継承はほとんどないのではないかというくらいだ。 しかし、皮肉なことに、反乱の成功は、コンスタンティノープルを掌握できるかどうかにかかっていたし、コンスタンティノープルを掌握した皇帝は軍事貴族たちの勢力を削ぐことに執心した。 そして、オスマン朝のメフメト2世がコンスタンティノープルを1453年に占領した際には、「ミストラやペロポネソスがなおビザンツ人の手に残されていたものの、その地にいたコンスタンティノスの弟たちは皇帝を名乗らなかったので、コンスタンティノス十一世が最後のビザンツ皇帝となった。ビザンツ人の理念や魂にとってコンスタンティノープルこそが核心であったから、この町なくして帝国が存続し得るとは考えられなかった*2」のである。

ビザンツ帝国は「アジアの草原地帯やアラビア半島から人の波が西へと流れてゆく『民族のボウリング場』の端*3」に位置していた。 黒海を挟んで北にはルーシがおり、西にはブルガリアやノルマンがいた。 ビザンツ帝国はこの地理的な位置ゆえに、領域への圧力が高い状態が断続的に続いたが、反対に言えば、このような場所にあったがゆえに、存続のための最大の武器―金―を持つこととなったのだと思う。 本書ではビザンツ帝国の経済的な部分について語られる部分はあまり多くなかったが、潤沢な財貨があってこそ、「毒をもって毒を制す」といった戦略を駆使することができた。 ビザンツ帝国にとって人的資源こそが貴重であった。 反対に言えば、金の切れ目が縁の切れ目であった。

ビザンツ帝国滅亡の種は、内覧の際にカンタクゼノスが、援軍を求めて外国君主を味方に引き入れたときに蒔かれた。もちろん、それ自体は何ら目新しいことではなかった。歴代の皇帝が何百年にもわたって行ってきたことである。今回違ったのは、先帝たちが用いていたすばらしい武器がカンタクゼノスにはなかった点にある。外交の歯車を円滑にし、同盟者の忠誠を確保する、無尽蔵と思われた金貨が、もはや供給できなかったのである。

そういう意味では、貿易の競争相手となった、ジェノヴァヴェネツィアを含める「ラテン人」が帝国を蝕んだという側面はあるといわんばかりの記述はなかなかに面白かった。 特に、第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領後にビザンツ人の心性が微妙に変化している点の指摘は興味深く、少し物悲しい。少々長いが引用する。

これまでのビザンツ帝国は、次々と押し寄せてくる危険な戦士集団を手なずけ、取り込んでいった。しばしば帝国軍に徴用し、他の敵に差し向けたのだが、この政策は一二〇四年に大失敗となる。失敗に対するビザンツ人の反応の一つが、遥かに狭い自己認識に引きこもることであり、そのひとつの兆候が自称の変化であった。公式にはビザンツ人は「ローマ人」と名乗っており、この言葉に民族・人種的には意味合いはまったく含まれていない。ローマ人とはキリスト教ローマ皇帝の臣下であるに過ぎない。ところがこの頃になると、ビザンツ人の中にみずからを「ヘレネス」と呼ぶものが現れ始めた。「ヘレネス」は新しい言葉ではなく、古代ギリシア人の自称であった。ビザンツ人はギリシア人の文学作品をきわめて高く評価しつつも、「異教徒」を意味するようになった「ヘレネス」という表現は、これまでずっと避けていた。しかし今やそれが復活の兆しを見せ、おそらく自分たちをラテン人から区別する特徴のひとつ――言語――を表明するものとなったのである。[...]こうして今やビザンツ人は、普遍的な理想ではなく、言語や民族という点から自己を定義するようになった。皮肉なことにこの点において、何世紀にも渡ってビザンツ人を「ギリシア人」と呼んできた、ラテン的西方世界の習慣に従うことになったのである。ただし、このような変化が生じた理由は容易に理解できる。敗北と占領は、いつの時代も民族意識国民意識を先鋭化させるものなのである。*4

終章にて、「ビザンツ帝国の最大の遺産は、もっとも厳しい逆境にあっても、他者をなじませ統合する能力にこそ、社会の強さがあるという教訓である。*5」と締めくくっているが、「ローマ人」から「ヘレネス」への自称の変化は財貨の観点以外に、心性の面でも、選択の幅が狭まっていったことを示している。

訳者の井上はあとがきにて「こんな本を書きたかった……、訳し終えての感慨である*6」と述べているが、読後感は、「こんな本を読めてよかった」である。 ビザンツ帝国から、なんとなく興味がありつつも、正直、どの本から手を付けたものか、という感じであった。 その点、本書は皇帝中心の政治史であるが、全体を概観することができ、他の本も手にとって理解できるようになる素地は整ったように思う。 非常に読み応えのある一冊であった。

とりあえず次の一冊は、これにしてみようと思う。

ビザンツ帝国の最期

ビザンツ帝国の最期

*1:本書、 pp. 16-17

*2:本書 p. 335

*3:本書 p.16

*4:本書、p.298

*5:本書 p.339

*6:本書、p.351

エリック・H・クライン『B.C. 1177 - 古代グローバル文明の崩壊』筑摩書房、2018年。

B.C.1177 (単行本)

B.C.1177 (単行本)

古代への情熱が少し高まっていたので、買っていた一冊。

「古代グローバル文明の崩壊」という副題は大げさ、というか、邦題にありがちな「現代的感覚に寄せたキャッチー」なそれだと思った(とりあえず「グローバル」と入れておけといったような)。

しかし、実際に読んでみると、後期青銅器時代のオリエント~ギリシャの政治的、経済的、文化的な、想像を遥かに超えた交流が、生き生きと描かれていた。 個人的には、不勉強故に無味乾燥で「高校世界史の教科書では暗記ゲームになっている、なんかよくわからないが興っては廃れる」王国や帝国に、一転、色彩が与えられるかのような感覚があった。 タイトルには「崩壊」とあるが、本書のほとんどは、この交流が描かれていたという印象だ。

原題は "1177 B.C. The Year Civilization Collapsed" である。 "Civilization" と単数形であるところが注目点である。 このことについて、解説の橋川の「本書の表題にある単数形の『文明』は、後期青銅器時代の近東・東地中海世界の個々の社会、国家、文明が長期的にわたってはぐくんだ緊密かつ複雑なネットワークを象徴するタームである」との説明が書評としては必要十分なのでこれを引いておくことにしよう。そして、本書で「この『文明』は全一三世紀末から一二世紀初めにかけて、劇的な終わりを迎えた、つまり崩壊したとされるが、その崩壊の理由は何なのか、その時期一体何が起こっていたのか、とクラインは問う。*1

邦題について、ありがちな「現代的感覚に寄せたキャッチー」なそれと冒頭で言及したが、実際の内容も、良い意味で、「現代的感覚に寄せた」表現が面白い。 この点については訳者の安原も言及していて首肯したため、引いておく。

「とはいえ本書の一番の読みどころは、この時代の文明と現代文明との類似性、あるいは共通性の考察にあると言っていいだろう。たとえば『当時の錫(青銅の原料)の重要性は、現代の原油のそれに匹敵していた』という指摘、よくも悪くも活発的な外交交渉が行われ、政治経済の相互依存度の度合いが極めて高かったことなど、しろうと目にも現代とよく似ていると驚かざるを得ない。*2

本書のテーマは、「後期青銅器文明が一斉に滅んだが、それは本当にいわゆる「海の民」が原因であったのか?」という非常に大きな物語である。

しかしながら、筆致はテーマの大きさを考えると、古代文書をふんだんに引いていると感じた。なんとなくの印象は残っているものの、少なくとも自分には、覚えきれないほどの文書が引用されていた(ファラオに露骨に金をせびる他国の君主とか面白すぎる)。

全体的に小さいエピソードが散りばめており、読んでいて飽きるようなことはなかった。寝る前や通勤・退勤中にの細かい時間でもぐっと入りこんで、読めた感がある。最近、読書からは離れてしまっていたところがあったので、久々の感覚だった。

一方で「このことについては後で考察する」という部分が多く、細切れにしか進められない人間からすると、覚えていられず、ちょっと厳しいところはあったが、全体的にはわかりやすく構成されていた。

肝心の結論部は、ちょっと物足りない感じはするものの、下手に言い切らないところに好感が持てた。 史料が不十分だからこそ、大胆な想像は重要だが、なけなしの史料を丁寧に分析し、地に足をつけた像を描いて見せている。

*1:本書 p. 277 - 278

*2:本書 p.273

青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』(興亡の世界史シリーズ)講談社学術文庫、2018年。

やっと読み終えた。 序章終章以外にも、著者の現代世界への目線ががちょいちょい出てきて、我田引水感がすごく、そのあたりは全然響かなかった。 青柳正規ってこんな感じだったっけ?

岩波ジュニア新書の『ローマ帝国』のほうが面白かったような。

人類誕生のからそこそこ丁寧に書いており、紙幅と著者の専門との関係で、展開はテンポがよく、知らないこともたくさんあって、その点では面白かった。 著者の世界観はスルーでOK。

藤田嗣治展に行ってきた

藤田嗣治展に行ってきた。 わざわざ、こんな台風でヤバイ日に外に出なくても、と自分でも思うが、ここまで行ける日がなかった。

個人的には、「藤田嗣治」というよりかは「レオナール・フジタ」というほうがイメージが強いのだが、名前はなんとなく知っていた。

藤田により強い関心が芽生えたのは、片山杜秀の『未完のファシズム』で『アッツ島玉砕』が紹介されていたからだった。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

今回の藤田嗣治展でも一番見たかったのはこの一枚だった。 あれは、「作戦記録画」という代物で、主に軍部の嘱託により制作され、軍部に公式に認められたもので、「戦争画」よりは語義が狭いらしい。

戦後、藤田はフランスへ渡り、その後、日本へは帰ってこなかったというのを聞いており、「戦争に利用された悲劇の画家」というイメージがあった。

一方、解説を読むと、戦争へ向かう日本に渋々帰ってくるような表現がある一方、「作戦記録画」をわりとノリノリで描いていたところもあり、実際のところはよくわからない。

肝心の『アッツ島玉砕』はというと、思ったよりサイズが大きく圧倒されたというのが第一の感想。 敵味方入り乱れての白兵戦状態で、銃は弾を飛ばすものではなく、槍や棍棒と化している。 全体的に茶色で暗い作品で、中央中景の日本兵の歯が異様に白いのに目が奪われた。

思ったより「作戦記録画」がなかった点は、ちょっと残念だった。そういう企画じゃないのはわかっていたが。 一方で、その頃の、逆光の自画像は強く印象に残った。 解説では、「作戦記録画」を発表しつつも、本作で内省が示されていると書かれていたが、かなり正しい評価だと感じる。 藤田にとって、作品に没頭するしかない世界だったのだろうと思う。

ただまぁ、こうやって考えてみると、藤田は非常に「素直」な人間だったのではないか、と思えてきた。 あと、略年表があったのだが、女をとっかえひっかえしすぎ。 なお、略年表は最後の伴侶である君代が何の説明もなく、突然、戦後、日本を離れるタイミングで現れてきて、ちょっとこまった。 横のカップルも「君代って誰?突然出てきた」と言っていたので、私の見落としではなく、突然出てきたんだろう。

また図録を買ってしまった。置く場所があまりないのに。

この展覧会のだけのつもりだったけど、おべんとう展というのもやっていて、ついでに足を運んだ。 お弁当の精霊の展示はよくわからなかったが、その他の展示は面白かった。江戸時代にはお弁当に刺身が入ってたんか。

あゆみ食堂の展示は良かったな。 ネットでも読めるようだ。

台風接近のため帰りを優先し、全部は観きれなかったが、中学生の映像作品もよかった。お弁当を作るというテーマだけでよく、あそこまで作ったもんだ。